第36話 迷子の魔族
およそ八十年前。
エルナがまだ小さかった頃。
エルナには人族の友達がいた。
名前をマリナ・ソーマという。
魔宮殿にこもりっきりだったエルナの唯一の友達であった。
魔界にある全ての魔国を統べる絶対的な存在、魔王。
その唯一の娘であったエルナは、物心ついたころから次期魔王に相応しい威光を持つように厳しく養育されてきた。
朝目を覚ましてから夜床に就くまで、エルナには気の休まる時間がつゆほどもなかった。
加えて魔宮殿から出たことはほとんどなく、同年代の友達はおろか気のおけない話し相手さえ一人もいなかった。
そんな日常に嫌気がさしたエルナはある日の魔法訓練中、覚えたばかりの魔法を使い家庭教師を眠らせて魔宮殿を抜け出したのだが、久しぶりの自由に嬉々として足任せに遊びまわっているうちに人魔境界付近に迷い込んでしまった。
見渡す限り草原が広がるばかりで、辺りに人気はまったくない。
ついにエルナは孤独の恐怖で動けなくなってしまった。
エルナが座り込んで泣いていると、一人の少女が声をかけてきた。
心配そうにエルナの顔を覗き込む着物姿の少女――マリナ・ソーマである。
「だ、大丈夫? あなたどこから来たの?」
これが彼女の第一声だった。
愚鈍だと教えこまれてきた人族の少女に話しかけられた時の心のざわめきを、エルナは鮮明に覚えている。
「……魔界です。愚鈍な人間が私に何か用ですか」
エルナは涙を拭い、赤くなった目元を隠すために顔を伏せたまま平然を装って答えた。
この時はまだ、人族は愚鈍な存在なのだと盲信していたので、その返答も自然とつれないものになった。
「あなた魔族なのね。魔族とお話するのは初めて」
俯いたままのエルナに、少女はあどけなく笑いかける。
「私、マリナ・ソーマ。すぐ近くの東部ソーマ国から来たの。よろしく! あなたは?」
「エルナ。エルナ・トレナール。悪魔です。私のこと、怖くないんですか?」
「うん。本当は魔族ってもっとこわーいものだと思ってたけど、父上の言う通り私たちとあんまり変わらないのね」
「……………………ばかですか」
エルナは何のためらいもなく発せられたマリナの返答に呆れて物も言えない。
人族には自衛の意識が欠片もないのだろうか。
あるいはこの少女が特異なだけだろうか。
「ばかじゃないわよ。お金の計算くらいはできるんだから」
マリナは腰に手を当てて頬を大きく膨らませ、子供らしく怒ってみせた。
「まあいいわ。ところでどうしてエルナはこんな所に一人でいるの?」
「まいごっ……ではなく、偵察です。来るべき人魔境界を越えた侵攻に向けて」
隣にいるのが人族であれ、孤独から解放されて安堵したエルナは思わず口を滑らせてしまいそうになった。
危ない。ここで迷子だとバレてしてしまうと絶対に馬鹿にされる。
「てーさつ……。ふーん。てーさつねー。私もそんな所かしら」
偵察という聞いたこともない単語にマリナは首をひねったが、すぐに腰に手を当てて得意気な様子で辺りをてくてくと歩き回り始めた。
「てーさつってお散歩のことよね……ってあっ! あなた怪我してるじゃない」
ぐるぐると歩き回っているうちに、マリナはエルナの膝にできた擦り傷に気づいた。
「着いてきて。母上に言って治してもらいましょ。歩けるかしら?」
マリナが心配そうにエルナの手を取るが、その必要はなかった。
「はあ、これくらいでずいぶんと大袈裟ですね。――【治癒】。ほら、治りましたから」
膝にかざしたエルナの小さな掌がほのかに発光し、膝の傷は瞬く間に消えていったのだ。
「うわー! すごい! なんの詠唱もなしにいきなり魔法を使うなんて!」
マリナは傷跡がすっかり消えて綺麗になった膝を見て、エルナに憧憬の眼差しを向ける。
詠唱することなく魔法を使える人間などおさおさいないからだ。
「まあ、次期魔王なのだからこのくらいは当然です」
「じきまおう……。よくわからないけど、なんだかすごいのね!」
ふだん魔法訓練で叱責されてばかりのエルナは気をよくした。
褒められたのなんていつぶりだろう。
「それに傷が治ってよかった。もう痛いところはない?」
「大丈夫です。魔族は強いですから。どうしてそんなに他人の傷を気にするのです?」
魔界では腕を一本失いでもしない限り心配されることがないので、擦り傷程度でひどく心配していたマリナのことを、エルナは不思議に思った。
「みんな元気じゃないと不安だから、かな? うーん……よく分かんないや」
「ふふっ。何ですか、それ」
エルナはひっそりと笑った。
人族とはつくづく理解しがたいものだ。
次の瞬間、エルナの腹が――グウゥゥと鳴った。
マリナに聞かれるまいと急いで両手で腹を覆う。
まずい。次期魔王としての威厳が……。
「それでは、行かなくてはならないところがありますので」
しばらくの沈黙ののち、エルナは何事もなかったかのようにその場を後にしようと立ち上がった。
腹が鳴ったことなどなかったことにする作戦である。
「ちょっと待って。お腹空いてるんでしょ。はい! これあげる。そこに座って一緒に食べましょ!」
マリナには腹の音がしっかりと聞こえていたようで、エルナの行く手を阻むようにして正対すると、腰にさげた巾着からなにやら取り出して満面の笑みでエルナに差し出した。
「はい!」
「聞こえていましたか……。しかしなんです? これ」
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