時の流れが変えたもの

鷹山勇次

第1話

真治まさはる、今日帰るってよ。」玄関から顔を出した妻、則子のりこが声を張り上げた。

「おう。」私は短く答えた。

左手に水道のホース。右手にスポンジを持って洗車をしていた。

助手席の横、はねた泥で薄茶色になっている。

水をかけながら、スポンジで軽くなでると、泥がきれいに落ちていく。

「へぇ。やっぱりコーティングはすごいな。」

ひと月前の点検の時、車屋に勧められて施行したコーティングは、確かに効果絶大だった。

多少値段は張ったけれど、やってよかった。と感心した。


 水をかけながら、スポンジでなでるだけの洗車を終え、水気を拭きとると家に戻った。

真治まさはる、何時に戻るって?」台所にいる則子のりこに声をかけた。

「知らない。今夜、としか言ってなかったよ。時間が分かったら連絡が来るでしょ。」則子のりこが振り向いて答えた。

「迎えは?」さらに聞いた。電車なら駅まで迎えに行ってやろうと思ったからだ。

「車だって。」冷蔵庫を開けながら則子のりこが答えた。

「そうか。前、帰ったのいつだっけ?」

「うーんっと。3年くらい前のお正月じゃなかったかな。」真治まさはるは他県で一人暮らしをしている。忙しいのか、地元に未練が無いのか、時々しか帰省しなかった。

「そか。三年前か、早いもんだな。」

 答えながら、私はあることを思いついて寝室に向かった。戸棚の扉を開けて雑然と並んだ箱の中から、目当てのプラスチックケースと、そのプラスチックケースの上に乗っていたリュックと一緒に取り出した。


 プラスチックケースを開けて中を確認した。カメラ本体を取り出して色々な角度から見た。

もう一度ケースに手を入れてカメラレンズを3本出すと、床に並べた。


 一本一本、手に取ってカバーを外して確認する。カビが生えたりはしてないようだ。レンズの一本をカメラに取り付けると、電池を交換して動作を確認した。

フィルムを入れて、ふたを閉める。一度巻いて、レンズを覗き込んで一枚だけシャッターを切った。

「うん。大丈夫だ。」そう呟いて、リュックにカメラと交換レンズ一本、予備のフィルム、ブルーシートを入れて、三脚を括り付けた。

「よし。」そう呟いて、台所に向かった。


「母さん、赤いきつね、あるかい?」則子に声をかけた。

「赤いきつね?あぁカップ麺ね。今は無いわね。」食器棚の下の扉を開けて、中を覗いた則子が答えた。

「そか。」

それだけ答えると、また寝室に向かった。

リュックを背負ってみた。

「この感触、なんか久しぶりだな。」そう呟いて、うっすらとガラスに映った自分の姿を眺めた。笑みが漏れた。


あとは・・・。

「あとは、赤いきつねとお湯だな。」呟きながら考えを巡らせた。

お湯を入れる水筒は、時々お茶を入れて使っているし、さっき台所に行った時に見た。

赤いきつねと、お茶かコーヒーか飲み物が必要だな。

途中で買えばいい。あの公園までの道には、コンビニがあるし、飲み物は公園の駐車場に自動販売機もある。

「よし。準備完了!」そう言ってリュックを下して、戸棚の前に置いた。


 則子と二人の夕食を終えた。真治からは、食べている最中に電話があった。「あと一時間くらいで着くって。」と電話に出た則子が教えてくれた。

「電車で帰ればいいのに。」則子は何度かそう言って、自分で運転して帰って来る真治の身を案じていたようだ。

私は特に心配はしていなかった。今まで何度か車で帰ってきているし、運転するのは不慣れな道と言っても地元だ。最近はカーナビもあるから迷う事もない。それに車の性能も上がっている。


 居間のサッシのガラスに差し込んできた車のヘッドライト。庭に入ってきた車が、止まった。ドアを開ける音。一緒にテレビを見ていた則子が立ち上がって玄関に向かった。

「帰って来たか。」そう呟いた。


「ああ。真治。お帰り。」則子の声がうっすら聞こえた。

「ただいま。」久しぶりに聞く真治の声。

則子が台所に向かうスリッパの音。

「真治、ごはんは?」「あー、食べてきたよ。」と二人の張った声が聞こえた。


 「ただいま。」居間に入って来た真治が私に言った。

「おう。」短く答えた。

「突っ立ってないで座れよ。」そう言おうとした時、真治が先に口を開いた。

「な。父さん、山に行かないか。」心臓が大きく一度、脈打つのを感じたが、帰る早々かよ。そう思って、時計を見上げて言った。

「あ?今からか?」内心ちょうどいい時間だな。とも考えていた。心の中では、行きたいという波と、明日でいいじゃないかという波が左右から押し寄せて小舟が揺れていた。

「今からだ。」真治は、はっきりとした口調でそう言ったが、すぐに腰を上げられる程、私は若くない。ちょうど食事を終えた所なのだ。なおさらだ。

「お前、3年ぶりに帰ってきて、そんな。今日だって長距離運転して、」口ではそう言いながら、いいわけだ。本当はすぐに行きたい。そうも思っていた。


「いいから、行こうぜ。車は僕が出すからさ。」そう言って、腕を引っ張る真治。

立ち上がって、「しょうがなねぇな。まぁ、どうせ行くなら写真も取らなきゃな。ちょっと待ってろ。」そう言いながら、ふと懐かしい気持ちになった。

 真治に腕を引っ張られて、何かわがままを聞く。そんな久しぶりの親と子の関係が心をくすぐった。


「母さん、真治と山に行くから、水筒にお湯入れといてくれ。」台所に行くと、則子に声をかけた。

「え。今から?」則子は目を丸くした。

「今から行くって。真治が言い出してよ。」まるで子供を言い訳にして、自分が楽しむ親の気持ちだった。昔あったそんな状況が幼い真治の顔と一緒に思い浮かんだ。

「そっか。真治も疲れているだろうし、あんまり遅くならないようにね。」則子は、そう言って水筒を手に取った。

 寝室に向かいながら、あいつ、どこかで私がカメラの準備していたのを、見ていたんじゃないか。そんなことを考えた。


 戸棚に立てかけてあったリュックの前にしゃがむと、リュックのファスナーを開けて、中身を確認した。

中のものが落ちない程度にファスナーを閉めると、「よし。」と言って、半開き状態のリュックを片手で持ち上げて、台所に向かった。

則子からお湯の入った水筒を受け取り、リュックの中に入れると、ファスナーをきちんと閉じた。


 真治は居間で座ってお茶を飲んでいた。

「準備できたぞ。」と声をかけると、「じゃ、行こうか。」そう言ってすぐに立ち上がった。


 リュックを後部座席に置いて車の助手席に乗り込む。

自分の荷物を確認していた真治が少し遅れて、運転席に座った。


 「途中でコンビニに寄ってくれ。」走り始める前に言っておいた方がいい。真治に声をかけた。

「何買うの?」当然の質問だな。

「夜食だよ。決まってるだろ。」分かりきった事だろ。そんなニュアンスで答えた。

「夜食なら持ってるよ。」前を向いたまま真治が答えた。

「あれか?」

とっさに名前が出てこなかったのか、「いつもの。」で通じる常連の気分だったのか、自分でもわからないけど、そんな短い言葉だけで通じると思った。

「あれだ。」真治は答えると、ニヤリと口元をほころばせた。

通じたな。それだけで十分だ。そう思った。

「お湯は?」真治が、今思い付いたように聞いてきた。

「ある。」その準備は完璧だよ。そう言いたくて後ろのバッグを指した。


 真治のデジタル一眼レフカメラ、私のフィルム一眼レフカメラ。二台並べて置いた。この山頂、前回来たのはいつだっただろう。昨日だったかな。と思えるほど変わっていない。


 デジタルカメラは、便利で性能もいい。きれいに撮れる。だけどそれだけだ。

何かが足りない気がして、私は今でもフィルムカメラを使っている。


 真治がブルーシートを敷いてリュックから「赤いきつね」出した。

その様子を見て水筒を出した。お湯を注ぐ。いい香りだ。

何年ぶりだろう。真治の横で、出汁の香りと星空に包まれて待つ5分。


新しい物、古い物、昔と同じ光景。

時の流れが変えたものがひとつ。大人になった真治


 「この揚げの美味い食べ方があるんだ。」二人で赤いきつねを食べ始めた時、真治が言った。揚げを口に含んで汁を吸い取ってまた汁に戻した。

2回繰り返した後、「こうするとさ、揚げに染みた出汁と揚げの味が何度か楽しめるんだよ。」と自慢げに言う。

確かに、揚げに染みた汁がうまいのは分かる。けど。

「なんか汚ねぇな。そんな食い物で遊ぶような・・・ガキじゃねぇんだから。」

「いいからやってみて。」真治がそう言うので、一度だけやってみた。

「うん。確かにうまい。染みてるな。」笑っちゃうくらい美味い。

「美味いけど、やっぱり一回、口の中に入れたものを出すのは、なんか汚いな。」

困ったもんだ。

「そうだね。棒のついたキャンディーとかならいいけどね。」前に向き直った真治が遠くを見ながら言った。

「あれはそういう風に出来てるからな。ま。誰も見てない所でやれ。」

言っていることはよく分かる。だけど、やはり行儀がいいとは言い難い。

「わかってるよ。」

真治も自覚しているみたいだ。


先に食べ終わった真治が置いた空のカップ。上がった湯気が闇に消えていく。

デジタルカメラの液晶画面が、優しい光で真治の顔を照らしていた。


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時の流れが変えたもの 鷹山勇次 @yuji_T

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