4 大切な時間
余命半年だという。
理解するより先に涙が溢れた。そんな、まさか。
雨野さんは嗚咽する俺の背中をなでて、ごめんね、と繰り返した。
「びっくりさせてごめん。でも、どうしても渋さんに知っていてほしくて。頼みたいことがあるんだ」
雨野さんは変わらず笑顔で俺に語りかけた。俺はしゃくり上げるのを懸命に堪え、涙を何度も拭った。雨野さんが頼みたいことはひとつしかない。
「彼女をよろしくお願いします」
無理です。俺は雨野さんの代わりになんてなれない。
俺は切れ切れに叫んだ。雨野さんは困ったように微笑んだ。
「代わりじゃなくて、渋さんなら彼女を幸せにしてくれると思うんだ」
雨野さんは俺の背中をなでながら続けた。
「俺もね、昔魔女係だったんだよ」
でも接するうちに彼女自身に惹かれた。当時彼女のお祖父さんが存命で、お祖父さんに頼まれたんだ。うちの孫娘を頼むって。
こんな仲にまでなれるとはその時は思わなかったけど、と雨野さんは照れくさそうに小さく付け加えた。
「彼女は渋さんより年上だし、子供も望めない。それでも、もし渋さんが考えてくれるなら……」
穏やかな声はいつものままだ。俺は答えることができなかった。年はいい、子供も姉の子がいるから俺はいい。でも、雨野さん。そんなことまで俺に言わないでくれ。雨野さんが生きて魔女の側にいたらいいじゃないか。こんなにふたりでいたわり合ってきたのに。俺は、そんなふたりが大好きなのに。
「半年とは言うけど、いつどうなるかわからないんだって。考えてみてくれないか」
俺は長いこと泣いてしまった。そろそろ魔女が心配する。俺は懸命に息を整えながら、雨野さんに尋ねた。
「魔女には、言ったんですか」
雨野さんは手を止め、そうだね、と呟いた。
「昨日、渋さんが好きか聞いたよ。好きだと言っていたよ。彼女が他の誰かを好きだと言うのを初めて聞いたよ。だから頼もうと思ったんだ。俺のことは、」
雨野さんはまたあの呑気そうな顔で笑った。
「渋さんが引き受けてくれたら話そうかな」
魔女は本から顔を上げて少しそわそわしていた。雨野さんが入院する前より、離れることを怖がっているようだ。雨野さんは魔女の頭をそっとなでて、大丈夫だよ、と笑った。魔女はそこで初めて泣き腫らした俺に気付き、驚いて駆け寄ってきた。
大丈夫ですか?どうしたの?どこか痛いの?
「えっと、さっきそっちで転んで」
俺が咄嗟に下手な言い訳をすると、魔女はどこ?と尋ねた。適当に足を示すと、魔女はそこにそっと手を触れた。
治癒の魔法です。規約があるから弱い魔法ですが、少しは痛みが治まるはずです。
魔女が魔法を使うのを初めて見た。本当に魔女なのか。魔法が効いたのかどうか怪我もしていない足ではわからないけれど、俺を気遣い魔法を見せてくれた。
雨野さんが微笑んでいる。俺はまた我慢できなくなって泣いてしまった。魔女は魔法が効かなかったのかとあわてて俺の足を見ようとした。俺はその魔女を捕まえ、抱きしめた。魔女は驚いて瞬時もがいたが、すぐにおとなしくなった。俺は魔女を抱いて泣いた。
俺は辞職するつもりで、山田さんに相談した。山田さんは少し考え、まあ待てと言った。
「職務のうちって言って通用するうちはこのままにしとけ。辞めるのはいつでもできるんだからよ」
上司がそう言ってくれるならそうしよう。俺はなるべく魔女の監視に専任できるよう計らってもらって、今まで通り店に通うことにした。
そうは言っても人手がないときは応援に入らなければならないから、何日か店に行けないこともある。
魔女が顔にあざを作っていたのはそうしてしばらくぶりに店に行ったときだった。店はずっと休業している。
「それ、どうしたんですか」
思わず語気が荒くなり、魔女はたじろいだ。
転んで、と魔女は囁いた。嘘の匂いがした。そんなはずはない。それは殴ってできたあざだ。店に雨野さんの姿はなかった。まだ具合が良くないのか。
雨野さんには見せたのか聞いたら、見せていない、見せられないと言う。誰にされたのかといくら尋ねても、魔女は転んだと言い張った。
誰か良からぬ輩でも出入りするようになったのだろうか。俺が魔女を任されたのに。
俺は魔女を抱きしめて、誰か知らない人がきたら雨野さんに出てもらうこと、出られないなら開けないか、俺を呼ぶことを約束してもらった。魔女は約束は破らない。俺の腕の中で魔女は震えながらうなずいた。
そんな時なのに署は何だか忙しくなってきた。
管内で行方不明者がいるという。写真を見ると、みんな屈強な成人男性だ。家出じゃなかろうか。しかし確かに届出が短期間にしては多い。この2週間で4人だ。開業医もいる。彼だけは小柄な年寄りだが、この開業医は評判が悪くて有名なので、彼だけは怨恨で殺されているかも知れない。まあ俺の知ったこっちゃない。
ともかく地方には珍しく事件なので、俺も山田さんもさすがに魔女係だからと言ってもおられず、久しぶりに聞き込みに奔走した。魔女に会いに行くのはだから近所を通りかかる短時間だけだった。
魔女の傷は治りきらなかった。治る前に傷が増えた。俺は心配だったが、魔女から俺に呼び出しがかかることはなかった。雨野さんも起きられる時は顔を見せてくれたから、ふたりで心配したのだが、やはり魔女は誰が来たのかは言わなかった。
そして雨野さんはどんどん痩せた。穏やかな笑顔は変わらなかったが、横になる時間が増えているようだった。死の匂いは俺の大好きなふたりから消えなくなってしまった。魔女もすっかり自宅にいることが多くなり、怪我も減るかと思ったのだが、それでも魔女は傷だらけだった。
1日休めるのはひと月振りだ。俺は朝から店の奥の自宅を訪ねた。
大きな物音がした。何事かと俺は開けてもらうのを待たずに飛び込んだ。
魔女を振り回しているのは雨野さんだった。痩せて、歩くのも覚束なくなってきたのに、もとが大柄だから細身の魔女ではひとたまりもないようで、髪を掴まれて引きずり回されていた。
「やめろ!」
俺は雨野さんに殴りかかった。
「やめて!」
吹っ飛んだ雨野さんの上に魔女が覆いかぶさる。雨野さんは動かない。
「やめて、お願い、やめて……」
魔女が泣いている。俺は呆然としてふたりを見た。
そのうち魔女は泣きながら洗面所に向かった。俺はまだ訳がわからずのされたままの雨野さんを見つめた。
しばらくして雨野さんは何の前触れもなく突然起きあがった。驚いて見ていると、雨野さんはやつれ果てた、いつもと同じ呑気な顔で辺りを見回し、俺を見つけて笑った。
「おはよう、渋さん。久しぶりだね。ところで俺、こんなところで寝てたのかな?最近どこでも寝ちゃうんだ。よく転ぶみたいだし」
「雨野さん、魔女は」
「ああ、まだ見てないけど、まだ寝てるのかな?」
雨野さんは洗面所とは反対の、魔女の部屋の方に目をやった。そのとき魔女が戻ってきた。
「ああ、おはよう、渋さんが来てるよ」
声をかける雨野さんに魔女が抱きつく。雨野さんは俺を気にするようにして慌てたが、何ともならず諦めて恥ずかしそうに抱きしめ返した。魔女が細い腕を雨野さんの背中にもがくように絡める。袖がめくれて顕になったその肌はやはりあざだらけだった。
寝ていると、いいんです。疲れてくると、ひどく痛むようなんです。そうすると、時々、あんな風に。
魔女はぽつりぽつりと話した。雨野さんは薬で寝ている。
でも、前より私にわがままを言ってくれるようになったんです。痛いとか、苦しいとか。水が飲みたいとか、私に側にいてほしいとか。
家で死にたいとか。
今までそんなこと言ってくれなかったから、私、嬉しいんです。全部叶えたいんです、あの人の言ったこと。
他の男がいいんだろう、ってあの人は荒れるんです。今まで言ってくれなかったことです。あの人は私がどうしようと構わないのかと思っていました。私を思い通りにして、私があの人のものだって納得してくれたら、あの人おさまるんです。けれど一度眠ってしまうと忘れてしまう……
私が誰かを好きになるかも知れないって怖がるあの人が可哀想で。そんなことありえないのに。
忘れてしまうんです。
痛み止めの薬を飲むと眠ってしまいます。ずっと寝ている方がいいのかもしれない。でも私はあの人に会いたい。あの人の心が私を求めてくれたら嬉しい。
小さな肩を震わせて途切れ途切れに囁く魔女を、俺は思わず、しかし恐る恐る抱き寄せた。魔女は拒まなかった。
「……雨野さんは自分が魔女さんを殴ってるって知ったら悲しむと思うよ」
俺の腕の中で、魔女が体を固くする。俺は腕の中の魔女を見た。彼女にももう死の匂いがしみついている。俺は魔女をしっかり見つめた。やはりもうひとりにしておいたらダメだ。
「雨野さんが本当に喜ぶことを考えよう。俺も一緒に考えるから」
魔女は疲れたように俺に体を預けてうなずいた。
俺は休職することにした。行方不明者がまた増えたようで、こんな時に、と散々言われ、許可が出るまで1週間かかった。山田さんは何も言わずに認めてくれた。
雨野さんの状態は少し落ち着いたようだった。薬が合うようだった。魔女の怪我が減った。俺は雨野さんに休職したことを伝えて、もう毎日通わせてもらうと言ったら、雨野さんは住み込んでいいよ、と笑った。
「そうはいきません。ケジメは大事です」
「変なところで真面目なんだから」
雨野さんに言われたくないし、だいたい俺はいつも真面目だ。魔女も笑っていた。
久しぶりに三人で穏やかな時を過ごした。雨野さんは時折発作を起こしたが、さすがに俺が取り押さえられないということはなかったので、雨野さんも魔女も傷つかずに済ませられるようになった。ふたりの時間にあった見えない緊張が消えていく。魔女がよく笑うようになり、雨野さんは嬉しそうだった。
雨野さんは薬をたくさん飲んでいて、話しかければ答えられるが、常時うとうとしているような感じだった。しかし、俺たちが側にいることを喜んでいるようで、魔女と俺が話していると楽しそうに会話を聞いていた。
魔女が雨野さんにくっついて本を読む。俺は少し離れた部屋の隅で本を読みながらふたりを見る。何でかな、俺はこれが俺の幸せじゃないかと思った。少し切ないけど。
このままがいい。三人でこのまま、このままがもう少しだけ続いてほしい。深夜帰宅する時いつも、俺はそう願わずにはいられなかった。
ある日、魔女が本を取りに行った間に雨野さんが俺を呼んだ。
「前言ったこと、考えてくれたかい?」
俺は一瞬置いて、しかしうつむいた。はい、ときっぱり言いたかった。けれど、雨野さんの代わりになれるなんて思えない。
「代わりじゃないよ。渋さんは渋さんのままがいいんだよ。どうかそのままで、彼女を好きになってくれないか」
「好きです。魔女さんも、雨野さんも」
俺もかい、と雨野さんは笑った。痩せた頬はかさかさだ。
本当にありがとう。君がいてくれて良かったよ。まだ、迷惑かけてしまうと思うけど、どうか、俺の最期まで。できれば、彼女のこれからも。
雨野さんは嵌めていた指輪を抜いた。細くなった指から、指輪は簡単に抜けて俺の手のひらに転がった。指輪にはまだ雨野さんの温かさが残っているように思えた。
昔プロポーズした時に揃いで作って、彼女にも贈ったんだ。きっと持ってくれているはずだよ。
……どうして結婚しなかったんですか。
どうしてかな。彼女は子供が作れないからって断られて。
でも、結局、俺が勇気がなかったからだと思うよ。後悔してる。
雨野さんは一瞬見たこともない目をしたけれど、すぐ、いつものような呑気な色を浮かべ、俺に向けて、笑った。
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