3 陰り

 その日はデスクワークも少なくて開店前に店についた。雨野さんは買い出しに行って留守だった。自宅の方ににまわって魔女に店の鍵を開けてもらい、俺は店の掃除を始めた。

 気がつくと魔女が佇んでいた。俺は驚いて机を拭く手を止めた。

 帰りが遅い気がするの。

 魔女が囁く。俺は時計を見た。遅いという程でもないとは思うが、魔女がひどく不安そうで、俺は何か嫌な予感がして外へ出た。

 雨野さんがいつも使うスーパーへ行く途中で、雨野さんはブロック塀にもたれかかるようにしてかがみ込んでいた。

「雨野さん!」

 俺は叫んで駆け寄った。雨野さんは青い顔を上げて弱々しく微笑んだ。

「急に、頭、痛くなって」

 嫌な匂いがした。

「救急車呼びましょう」

「大丈夫、帰るよ。荷物、持ってくれるかい」

 雨野さんはそう言ってふらふらと歩き出した。俺はとにかく投げ出された買物袋を持ち、雨野さんを支えて店の奥の自宅まで戻った。

 雨野さんを見て魔女が泣きながらすがりついてきた。しかし今は雨野さんを休ませる方が先だ。魔女を引き離し、布団を敷こうかとしていると、雨野さんがけろりとしてごめんごめん、と立ち上がった。

「何だか治ったみたいだよ。ごめんね、なんだったんだろうね」

「雨野さん!寝てくださいよ」

「え、でももう痛くなくなったし」

 泣きじゃくる魔女をなだめながら雨野さんは人ごとのように笑った。雨野さんはまだ少し顔色が悪かったが、確かにさっき道で見た時とは全く違って元気そうになった。

 しかし俺の不安は収まらなかった。魔女もなかなか泣き止まない。魔女も何か感じるのだろうか。

 さっき雨野さんを支えた時、微かに、しかし間違いなく、死の匂いがした。


 翌日俺は朝から休みを取り、何だかんだと嫌がる雨野さんを連れて病院に行った。魔女がこの役目ができたらいいのだが、あの人には無理だ。魔女は浮世とは相性が悪いのだ。何にもできやしない。

 待合室で並んで座って、雨野さんが何だか変な組み合わせだね、と呑気に笑った。そりゃこの年齢なら介助がいらなければ病院ぐらい一人で来る、ふたり並んでたらおかしいのは当然だ。この人は全くのんびりしている。連れてきた俺の方がよっぽど病人の顔をしている。

 雨野さんが呼ばれた。さすがに俺はそこまではついて行かないことにして、待合室で待つことにした。

 魔女は家で心配しているだろう。泣いていないだろうか。魔女があんなに泣き虫だとは思わなかった。山田さんに頼んだ方が良かっただろうか。

 山田さんにはざっと説明はしたけれど、やっぱり魔女についていてもらおうか。俺は山田さんに電話しようかと腰を浮かせた。すると雨野さんが戻ってきた。

「緊張した。病院て苦手だよ」

 雨野さんがのんびりと笑う。それどころじゃないとは思ったが、急かすのも悪いから俺は雨野さんの言葉を待った。

「検査入院しなきゃいけないって。今すぐってすごくすすめられたけど、準備もあるからどうしても明日ってお願いしてきた。渋さん、申し訳ないけど面倒見てもらえないかな」


 俺は山田さんに連絡し、店で落ち合うことにした。山田さんは俺の倍以上年上だ、少しは役に立つだろう。

 と思ったのだが実際は俺以上におろおろして役に立たず、結局雨野さんが殆ど自分で準備していた。保証人みたいなものだけ山田さんがなっていた。雨野さんの親族は少し遠くに住んでいるらしい。

 雨野さんは準備しながらぽつぽつと言った。少し前から頭が痛くなることが時々あって、痛み止めでごまかしてたんだけどね。

 入院は1週間の予定だった。その間は俺と山田さんが店に顔を出し、魔女の様子を見ることにした。さすがに女性ひとりのところに俺が今までのように入り浸ることはできない。

 帰り際、雨野さんは役立たずの俺たちに深く頭を下げてくれた。その後ろには、消え入りそうな魔女が佇んでいた。


 都合によりしばらく休業します、と張り紙が貼られた店の扉を、借りた鍵で開ける。毎日昼に来て、魔女に昼食を届け、食べさせる。これが俺と山田さんの新しい仕事だ。食べ終わるまでどうか見ていて下さい、そうでないと食べないかもしれないから。雨野さんは魔女の食事をひどく心配していた。昼食は通り道の定食屋に頼んでいてくれたので、俺たちは受け取って届けて眺めるだけだ。2日目からは俺たちの弁当も一緒に頼んで魔女と食べることにした。まだ3日目。魔女は既に弱り始めた。

「魔女もちゃんと食えよ。元気で留守番して安心させてやろう。心配ねえよ、検査だし、1週間で帰ってくるんだ。あと4日の我慢じゃねえか。頑張ろうぜ、帰ってくるなりお前さんが倒れたら蓮ちゃんも大変だろ」

 山田さんがゆっくり魔女に話しかける。魔女はうなずき、何とか食べようとするが、なかなか箸が進まない。もしかしたら眠れていないのかもしれない、目の下にはひどい隈ができていた。

 魔女が食べられるもの。もう何でもいいから。そうだ。

 俺は思いついて魔女を山田さんに任せて外へ出た。

 俺が買ってきた色とりどりのケーキを見て、魔女は少し微笑んだ。

「好きなもの、好きなところだけ食べていいから」

 魔女はうなずき、苺のケーキを引き寄せた。その間に俺はサイフォンの準備をする。雨野さんには店のものは好きに使っていいと許可を得ている。湯が沸き、俺はロウトをセットした。

 苺だけ食べて手を止めていた魔女が俺を振り返る。店に久しぶりにコーヒーの香りが漂う。液の上下を見届けて、俺はカップにコーヒーを注いだ。

 ついでだから俺と山田さんの分もテーブルに並べると、テーブルはケーキと弁当とコーヒーでいっぱいになった。乗り切らないので俺と山田さんのコーヒーはカップだけ、皿はなしだ。

 魔女は大事そうにカップを両手で持ち、ふうっと息を吐いた。そして口をつけると、あわてて離した。

 熱い。

 魔女のあわてた姿が珍しくて可愛らしくて、俺と山田さんは吹き出した。魔女も照れたように笑った。笑ってくれた。

 コーヒー、嬉しい。ありがとう。

 魔女は苺のケーキを半分食べ、がんばって弁当ももう少し食べた。コーヒーも飲んでくれた。

 残りのケーキは山田さんが署に差し入れにすると言って箱にしまい直した。テーブルが空くと魔女は本を持ってきて読み始めた。やっと少し落ち着いたようだ。せっかくだから俺も隣で本を広げる。本を読まない山田さんは退屈そうにしていたが、すぐに飽きて、じゃケーキ届けてくるわ、と立ち上がった。

「届けたらまた戻るからよ」

「えっ、じゃ俺も」

「お前は待ってろ。せっかく魔女が落ち着いたんだからしばらくいてやれよ」

 山田さんはこういう静かな時間が苦手なのだ。俺は戸惑ったが、山田さんはさっさと店を出てしまった。

 雨野さんがいない店は、本当に静かだ。時折魔女がページをめくる以外に中に音はなく、外の音ばかりがやけに響く。

 雨野さんは大丈夫だろうか。昨日はいつもと変わらない呑気な声で電話をくれたが、今日はまだ連絡がない。検査入院は意外と忙しいもんだと山田さんが言っていたから、それだけなのかもしれないが。

 急に肩が重くなった。驚いて見ると、魔女がもたれかかってずり落ちているところだった。あわてて支えて、とりあえずカウンターにもたれさせる。やっぱり眠れていなかったのだろう。すっかり眠ってしまっていた。

 俺は雨野さんを呼ぼうとして、はたと止まった。雨野さんは入院中だっけ。俺が自宅に連れていくのはまずくないか。あらぬ疑いをかけられたらいけない。でもこのままでは魔女がよく休めない。風邪でも引いたら大変だ。かと言って店に横になれるようなところは床しかない。床は冷えるだろう。どうしよう。

 俺はとにかく上着を脱いで魔女に羽織らせた。本をタオルでくるめば枕代わりになるかもしれない。大体山田さん、こうなった時に何とかできるように2人で行くことにしたんじゃないか。あのおっさんは本当に役に立たない。

 俺は少しでも柔らかそうな表紙の本を探そうとして立ち上がった。目の前に、俺の服に包まれた魔女が見えた。

 突き上げるような衝動に自分自身で驚いて、俺は拳を握った。いけない、でも、だけど、わかってるけど、今だけ、本当に少し、ほんの少しだけなら。

 髪に触れた。美しい髪だった。

 俺は長く息を吐いた。


 山田さんはその後間もなく戻り、俺は気持ちの整理がつかないままに山田さんに当たり散らした。上司だからそれなりではあったが。魔女は山田さんが戻るなり目を覚まし、ひとりで自宅に帰っていった。本当に眠っていたのだろうか。

 署に戻って雑用をこなしながら俺は空想する。ひとりでさびしくなった魔女が、寝たふりで俺を誘ってくれていたなら。

 惜しいことをしたな、とはとても思えなかったし、そもそもその空想が合っているとは自分でも思えないからこの話は早々に諦めた。髪に触れただけで良しとする。それだけですませられて偉いぞ、俺。

 少し自分が怖くなった。自分で思うよりも、俺は自分のことがわかっていないのかもしれない。


 雨野さんが無事退院してきた。本当に良かった。お祝いをしようかと山田さんが提案すると、雨野さんは例の呑気な笑顔でそこまでのことじゃないですから、とやんわり断った。山田さん、俺たちにできることは早めの帰宅だ。お祝いはお互い2人でしよう。俺は今日はおっさんの顔を見る。

 俺と山田さんはまたおでん屋に落ち着いた。

「色男が魔女に陥落しねえでまともに蓮ちゃんの顔を見られることに乾杯!」

 まだ言うか。せっかくおっさんに付き合うつもりだったのに。俺はもうひとりで飲む気分になった。

 今頃あちらのふたりはどうしているだろうか。積もる色々を解消しているのだろうか。

 俺はますますストレスを積もらせて、しかし久しぶりに肩の荷が降りた感じで、半ばやけっぱちで山田さんと飲んだ。


 何となく顔を出しにくい気がして、俺は雨野さんから電話をもらってから久しぶりに店に行った。

 店はまだ休業中の張り紙がしてあった。もう少し休むのだろうか。

「今回はごめんね、色々頼んで」

 雨野さんがやけに恐縮して俺を迎える。面倒ごとを頼み過ぎて俺が距離を置いたと思ったようだ。俺は慌ててそんなじゃありません、と否定した。雨野さんは入院前と変わりなく見えた。穏やかで優しげだ。検査の結果はいつ出るのだろうか。

 魔女がいつもの席で本を読んでいる。ごはんをちゃんと食べられるようになったからか、やつれていたのが少しふっくらしたようだ。しかし雨野さんが帰ってきたのに何だか元気がないようにも見えた。後で話してみようかな。

 片付けでも手伝おうかと雨野さんに声をかけると、雨野さんは俺を自宅へ招いた。魔女には店番をお願いするね、と声をかけた。休業中だ、客など来ない。魔女は素直にうなずいて本を読んでいる。俺は雨野さんを見た。

「向こうで話すよ」

 雨野さんの笑顔は、やっぱりいつもと変わりなかった。

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