2 三人で過ごす日々
俺の仕事は変わった。
朝、出勤してデスクワークを済ませ、魔女の店に向かう。コーヒー1杯で午前中粘り(良くも悪くも客が少ないのできっと店に迷惑はかけていない)、ランチを食べて、一応署に戻って山田さんの寝顔を拝み、雑用をして、直帰の札を下げてまた魔女に会いに行く。
他から応援要請があればもちろんそちらが優先だから毎日がこうではなかったけれど、俺はできる限り魔女を監視した。こんな奴らがいるから他に皺寄せがくるんだ。それは重々承知の上で、まあ仕事だ。配属の妙だ。割り切ろう。
魔女係は地域課だが私服だ。山田さんはネクタイもせず、セーターなんかを着ている。それならと俺もスーツをやめて普段着にしたらさすがに注意された。自分はいいが、俺はスーツを着ていろということらしい。勝手だ。
俺は真面目に毎日店に通った。雨野さんとも少しずつ話すようになった。
そんなある日雨野さんが少し言いにくそうに切り出した。
「そんなに毎日来ていただかなくても大丈夫ですよ。何かあれば連絡しますから」
俺は少々ショックを受け、邪魔でしたかとしょんぼり答えた。すると雨野さんはあわててそうじゃなくて、と胸の前で手を振った。
「お仕事もあるでしょうから。こっちはあんまり変わりのない生活ですし、何だか申し訳なくて」
「でも、前任者もやっていたことですから」
山田さんの記録では毎日ほぼ休みなく通っていた。しかし俺の言葉に雨野さんと魔女は顔を見合わせた。
「山田さんは月に2、3度顔を出してくれるくらいでしたけど」
えっ。
「たまたま暇な時はパチンコに行くそうで、おみやげ持ってきてくれましたけど、そんな時くらいでしたよ。あとは捜査でお忙しいと聞いていました」
捜査。この2人には言いたくないが、俺たちが捜査で忙しいことはない。あのオヤジ、日誌に嘘書いてずっとパチンコに行ってたな!
「俺は大丈夫です。署でいじめられてて居場所がないから、ご迷惑でなければ今までのように毎日来ます」
頭に来て適当に言うと、雨野さんは信用したのかああ、それは、と答え、労わるように言ってくれた。
「もしうちで良ければ、どうぞいつでもいらして下さい。ゆっくりして下さいね」
優しい言葉に心苦しくなった。魔女が少し目を細めて俺を見ている。魔女もカンが良さそうだから、バレたかな。
俺はその後ちゃんと雨野さんに嘘です、毎日は来たいけど別に署でいじめられてる訳じゃありません、と説明したのだが、雨野さんはわかりましたとうなずきつつも俺を労わることをやめなかった。思いの外手強い。
でもそのおかげかどうか、雨野さんはよく俺に話しかけてくれるようになった。正直時間を持て余し気味だったので嬉しかった。
魔女は甘いものが好きだそうだ。そうかと思いケーキを買って持っていったら魔女が喜んだので、毎日持っていったら雨野さんにそっと叱られた。夕飯が食べられなくなるので、毎日はちょっと。ケーキが来なくなった初日、魔女はちょっと不機嫌になった。
魔女はごはんをあまりたくさん食べられなかった。体が丈夫ではないようだった。雨野さんはずっと立って仕事をしているけれど、魔女は店にいても大抵何もしないで本を読んでいる。そして時々店にいない。自宅で休んでいるという。
客はいる時はいるけれどいない時は俺だけになる。そんな時は雨野さんに魔女の側にいてあげてほしいと思う。俺なんか別に放っておいてもかまわないんだから。客が来たら呼びに行くから。
何度も言って、無駄に律儀な雨野さんを魔女のもとへ追いやることができた時、俺は変な達成感を覚えた。以来機会があればこうしている。
魔女も少し変わってきた。俺は魔女の読んだ後の本を読んでみることにした。魔女は1日に何冊も読む。目を通すと全て覚えてしまうのだという。俺は何日もかけないと読めないし、つまらないと読みながら寝てしまう。重ねた本に顎を乗せて眠気覚ましに魔女を眺めていたら、魔女が来て俺を払い除けて本を選別した。
これなら、あなたにも面白いと思います。
初めて魔女に目を合わせてもらって、俺は飛び起きた。しかも俺の好みを知ってくれて、本を選んでくれた。
魔女が選んでくれたのは、冒険や宝物の小説と、現実にあることが信じられないくらい不思議な景色を写した写真集だった。俺は夢中で読んだ。
気がついたら閉店間際だった。雨野さんが肩を叩くまで気付かなかった。雨野さんは夕ご飯に誘ってくれた。
「お腹すいたでしょう。ご飯食べていきませんか?お金は取らないので、ありあわせのものですが」
三人で食べた夕飯はランチの残りをアレンジしたものだったけれど、特別においしかった。おいしいと言ったら雨野さんは年甲斐もなく赤くなって喜んだ。そういう人なのだな。
魔女は自宅でもずっと本を読んでいた。今日は見たいテレビがないのだそうだ。魔女はテレビが好きなのか。
雨野さんはご飯の後に晩酌をするのだという。俺も誘われ、ビールを1本空けたら男ふたりは調子に乗った。ちょうどスポーツニュースが始まったのもいけなかった。
始めは贔屓の野球チームのオープン戦の成績から選手のあれこれ、実は野球は観るのもいいけどやっても楽しい話だの、その後はテレビ番組の変化に伴い女性の素晴らしい部位のむっちりだのもっちりだの。
雨野さんは魔女といるから口数が少ないのかと思ったが、酒が入るとよく話す、意外と明るい人だった。真面目そうな顔をして下世話な話もよく付き合った。俺は年上の人とこんなに楽しく話したのは初めてだった。雨野さんもお世辞ではなく楽しそうに話してくれていたと思う。俺たちは時間を忘れて語り合い、魔女はいつの間にか姿を消していて、時計が俺たちを飛び上がらせた。
俺は嘘の匂いがわかる。
人の感情には匂いがある。喜怒哀楽、嘘、恋。強い感情は強く匂う。
俺はこれが当然だと思っていた。みんなわかっているものだと。だから何故見え透いた嘘をつくのか、恋心を隠そうとするのか、子供の頃はわからなかった。
そうではないらしいことを何度も痛い目にあって覚えたので、今は犯人の検挙の時などに便利に使っている。まわりからは特別カンのいい奴、くらいの認識のようだ。しかし俺は笑って誉めてくれるあんたが腹の底で俺を便利な道具で、せいぜいうまく使って自分の出世に役に立てようと思ってること、わかるんだからな。
そんな訳で、俺は先日雨野さんがむっちりした女性が素敵だと言ったのが嘘だとわかっている。完全に嘘ではないだろうが、彼の好みは絶対細身の女性だ。細い腰がいいと言っていたときには嘘の匂いはしなかった。胸よりお尻が好きなのも本当だ。多分好みが少しマニアックだ。伴侶は王道の美人なのに。しかしその時は俺も少し嘘をついた。好みの真ん中の同じ女性を思い浮かべて、胸だお尻だ言うのはまずい。
俺はこのふたりが好きになった。ふたりとも嘘の匂いがひどく少ない。この店の中は外より俺を素直にさせた。
近所の常連らしき人たちとも馴染んできた。常連にもなると、魔女と雨野さんの関係を突っ込まないんだから、もちろん俺のことだって何も聞かない。バイトの兄ちゃんがひとり増えたくらいに思って受け入れてくれる。俺も掃除や本の整理を手伝った。始めは遠慮していた雨野さんも、サイフォンの使い方を教えてくれた。初めて魔女が俺の淹れたコーヒーを飲んでくれた時は嬉しかった。あんまり置きっぱなしで手をつけないから、気に入らないのかと思ってどきどきし、焦り、落ち込んだが。熱いのが苦手なのだという。
雨野さんとも色々な話をした。昔のことも少しだけ聞いた。会社員だったのに、経験もなしで突然店を始めて、最初は毎日胃に穴が開きそうだったとか。何故そんなことになったかまでは教えてくれなかったが、多分魔女のためだろう。
山田さんに聞いてみたが、突然来たとしか言わなかった。この頃には山田さんのコーヒーは俺が淹れていた。給料でこんなことばっかり覚えやがって、と毒づかれたが飲んだら機嫌は直ったようだ。
我らの魔女は本当に静かな人だった。本で読んだら、魔女とそれを抑えようとする人々の歴史は時折かなり壮絶であり、時代を経て折り合いはしたようだが、この国のそれが魔女係になってからでも殉職者がいる。その時代に魔女係になっていたら、今のように給料泥棒とは呼ばれないだろう。
そうそう、この頃には俺の渾名はやっと色男を卒業した。最近はもっぱら給料泥棒と呼ばれる。まあどうでもいい。それでよく俺に応援要請してきて犯人検挙させるよな、と思えば腹も立たない。
こうして魔女と並んで本を読むのも仕事だ。交通課のアイドルと交通教室の準備をするのと同じだ。給料は出せ。
魔女は近頃よく俺の隣で本を読む。広くない店内で、邪魔にならない場所が限られてくるからではあるのだが、俺は素直に魔女が側にいてくれるのが嬉しかった。俺も本を読みながら、よく魔女の横顔を盗み見た。一度触ってみたいな。
そのチャンスはそれから間もなく訪れた。
その日魔女はやけに眠そうだった。昨夜テレビで放送していたアニメ映画を最後まで見たのだという。魔女はアニメも見るらしい。面白かったか聞いたら笑顔でうなずいた。俺もそのうち見よう。そんなことを話していたら、魔女は諦めたように本を閉じた。少し寝ることにしたらしい。魔女はもたもたと立ち上がり、そして大きくふらついた。
俺は咄嗟に魔女を支え、雨野さんを呼んだ。魔女は小さくごめんなさい、と言って恥ずかしそうな笑顔を見せて離れた。そして雨野さんに連れられて奥の自宅に戻っていった。
魔女は驚くほど細く、軽く、柔らかかった。女性の髪とはあんなになめらかなものなのだろうか。いい匂いがした。
「すみません、すごく眠たいみたいで」
雨野さんが戻り、俺はいつものように雨野さんを魔女のもとへ追いやった。具合が悪い訳じゃないから、と言いながら雨野さんは俺に店から追い出され、ひとりきりの店内で、俺はさっきのように本を開いた。そしてずっと魔女のことを思った。
山田さんが店に来た後は必ず飲みに誘われる。魔女係が揃って任務を放棄というのもどうかと思うが、雨野さんがそういう付き合いも大事だからというから付き合っている。ふたりきりの時間も大事だろうしな。でもあっちは美女でこっちはおっさんだよ。奢りじゃないし。
今日は山田さんの馴染みのスナックに連れてこられた。平日から飲み歩く人も少ないから、店は貸切だ。ママがサービスよ、と言って若い女の子を俺の隣に座らせた。山田さんはママがお気に入りのようだ。
女の子は気を遣っていろいろ話題を振ってくれたが、俺は最近流行りのアイカラーもネイルもわからない。魔女のせいで美人を見慣れ、大概の美人にぐっとこなくなったのは残念だ。以前はそれでも着飾った女性に話しかけてもらったら楽しかったものだが。女の子のイライラが匂ってきたので、俺も何とか話をしようと最近読んだ本を聞いてみたが、当然のようにマンガの話が始まって参った。俺もマンガは好きだし、この前魔女にすすめてもらった少女マンガは大変面白かったのだが、今度は女の子の方がそのマンガを知らない。古いマンガだから仕方ないが、何でこっちがお金を払ってイライラされて気を揉まねばならないのか。
あんまり俺がつまらない顔をしているから、山田さんも居心地が悪くなったらしく、その店は早々に切り上げることになった。
「お前なあ、もう少し上司に気を遣えよ、俺ママに会いに行きにくくなっただろ。若い男連れてくって言ったら喜んでたのによ」
「知らないすよ。帰りましょうよ」
俺はこれ以上おじさんの相手もしたくないので早く帰りたかったのだが、おじさんはもう一軒行くと言ってきかない。次はおでんがおいしい店だという。そう言えばご飯を食べていない。一軒目にスナックってなんだ。
俺は仕方なしに山田さんの後についた。
おでんの店はカウンター席だけの小さな店だった。寡黙そうな老店主が目線で席を指定し、俺たちは隅の席に収まった。
「親父さん、定番ふたり分と酒」
山田さんが注文すると、まずコップ酒が置かれ、次におでんの皿がきた。確かにうまそうだ。
「何だよ、お前こんにゃくから食うバカがいるか」
知るか。俺は無視して好きなものから食べる。うまい。山田さんは大根からだ。別に賢そうな選択ではない。半分食べて早くも酒のおかわりを注文している。山田さん、今日はやけに酒をあおる。
俺はふと気付いた。何か俺に話があるのか?
「山田さん」
「渋澤」
山田さんはコップ酒をまた空にして言った。
「お前はいい奴だ。でも女の趣味は良くねえ。人のもんばっかり好きになってどうすんだ」
俺は黙ってちくわをかじった。山田さんはまた酒を追加した。
「そりゃあんな美人はなかなかいねえが、女は顔じゃねえ。人のもん眺めてたってお前がしんどくなるばかりだぞ。見てみろよ、世の中にゃ誰のもんでもない可愛らしいのがいっぱいいるじゃねえか。お前はまだ若いし、様子だって悪かねえ。わざわざ厳しい方を選んでねえで、お前のことだけ見てくれる子を探したって」
俺はコップ酒を乱暴にテーブルに叩きつけた。大きな音がして、店が静まり返る。
「別に顔が好きなんじゃない。女なんか探して歩く程ほしくない。あの人が俺だけを見てくれなくてもいい。好きな人を見ていて、それでもたまに俺を振り向いてくれたら嬉しいんだ。俺はそのままのあの人がいい」
山田さんを見もせず言い切り、俺は酒を煽った。
「どうすんだよお前。引き合わせた責任感じるよ」
山田さんはひとりごとのように呟いて、たまごを箸で割った。
俺はどうするつもりもない。山田さんが言ったことも、心配してくれていることもわかっている。
でも、永遠にこのまま、なんてことはもちろんないだろうが、しばらくこのままでいいじゃないか。俺は魔女と雨野さんとの生活に満足している。俺が手伝うようになって雨野さんも余裕ができたらしく、新メニューの試作やら、梅干しやら果実酒やらいろいろ作り始めた。この店には、小さいけど地下室があるんだよ、とせっせと瓶を運び入れていた。この店は以前フランス料理の店で、地下室はワインセラーの名残だという。入口は改装の時に潰してしまったので蓋で塞いでいるだけだが、空調は生きているそうだ。そのうちワインも作りたいんだ、冬は漬物、今の倍は作れるね。雨野さんが野望を語る。何かしていないと気がすまない人なのだろう。
常連さんにもアリスちゃんが入ってくれて良かったね、なんて声をかけてもらえる。魔女も変わらず俺の隣で本を読んでいる。俺はその横顔を見ていられるならこのままでいい。
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