終章 魔術師ハイネのアトリエ

快晴



 リンベルクの空に、数日ぶりの快晴が広がっていた。からりと乾いた風は冷たいが、水溜まりが残る町並みを太陽が照らし、きらきらと眩しく煌めかせている。


 しかし、子どもたちの賑やかな声を取り戻したリンベルクにも、その裏側にはまだ大きな影が潜んでいた。


 フレーベル家で起きた惨殺事件――最近の新聞を埋め尽くすのは、その記事ばかりだ。


 フレーベル家の邸宅で、数名の使用人が刃物のようなもので切りつけられ殺害。そして、逮捕も間近だと目されていたコルネリウスは……その首から上を失った状態で発見された。


 事件の概要を聞いた時、エマの頭に一瞬ゾフィーの顔が過ぎった。だが、彼女は魔術を封じる枷を付けられた状態で移送中、事故に遭ったが奇跡的にひとりだけ生還。崖の下で倒れていたところを捜査隊が発見し、今は監獄に入っているのだという。


 ただ、彼女は一切の言葉を発することなく、完全な黙秘を続けているらしい。監獄の窓から、塀に囲まれた庭をぼんやりと眺めるばかりだというかつての友人に、複雑な想いは当然あった。


 けれど、エマが彼女を許すことは一生ないだろう。


 これらの情報を、エマは新聞から得たわけではない。フィリックスから聞いたのだ。


 全ての疑惑が晴れ、被害者だと公に認められたエマのもとへ聞き取りに訪れたのは、またしてもフィリックスだった。ただ、いつもは隣には新しい部下らしき別の傭兵がいて――


 だから突然ひとりで、しかも私服で訪れた彼に、エマは驚きを隠せなかった。


「……フィリックス?」

「急に邪魔して悪いな」


 いつものような、淡々とした業務的な話し方ではない。どこか落ち着かない様子で、初めて見る彼の姿に若干不安を覚えた。思わず、目の傷跡が左側にあることを確認する。


「ど……どうしたの?」

「……祝いを言いに来た。薬師試験に通ったと聞いて」


 歴代最年少だって? という問いには、あまりの驚きに答えられなかった。わざわざそれを言うために、来てくれたのかと。


「あ、えっと……それ、誰に聞いたの?」

「図書館司書の……マヌエラ・マイヤー、だったか。さっき、町中で偶然会ったんだ」

「そ、そう」


 リンベルク図書館は、試験勉強を進める中で最も世話になった場所だった。中でもよく顔を合わせていたマヌエラには、本を返すついでに合格の報告をしたのだ。


 当然、フィリックスにも伝えようと思っていた。だが、常に忙しそうにする彼に連絡するのは気が引けて――迷っているうちに、まさかフィリックスのほうから訪ねてきてくれるとは。


「おめでとう、エマ」

「……ありがとう、フィリックス」


 エマは何とか礼を言うが、自分でも情けなくなるくらい小さな声だった。しかしフィリックスは気にしていない様子で、片付けられた店の中を見渡す。


「また、店をやるのか?」

「いつかそうしたいと思ってるわ。でも、店を開くには薬師の資格だけじゃ足りないから、色々調べて準備しないと」

「……そうか。先生も喜ぶだろう」


 フィリックスの視線が、入り口の脇ある壁へと向けられる。


 そこには、美しい夕焼けの下を歩く、ヨーゼフとエマの絵が飾られていた。


「いつ見ても良い絵だな。あの銀髪の少年が描いたとは……いや」

「ふふ、ハイネね」


 どうやら、フィリックスの中でハイネは〝反抗期故の激しさを持った、気むずかしい少年〟ということになっているらしい。それが、エマには何だかおかしく感じるのだ。


「…………」


 フィリックスは小さく咳払いをすると、


「何か欲しいものを――考えておいてくれ。合格の祝いと、それから……誕生日の」


 と、言った。エマはまた驚いて、ぽかんと口を開ける。


「……じゃあ、また」


 短い言葉を残して立ち去ろうとするフィリックスを、エマは思わず呼び止める。


「あ、あの! フィリックスは、先生から私を守るようにとお願いされていたのよね。……私、もう充分すぎるくらい、あなたには助けてもらったと思ってる」


 必死になっている自分が恥ずかしくて、みるみるうちに顔が熱くなっていくのを感じる。しかし、途中でやめることはしなかった。


 これは、今、エマに必要な勇気だ。


「だけど、これからも……先生との約束がなくなっても……あなたに会えるなら、嬉しい」


 フィリックスは驚いたように立ち止まり、振り返ってエマを見た。


 かつて感情を表に出すことが苦手で、何を考えているか分からないと言われていた頃の自分に、今だけは戻りたいと思うほど、きっと全てが表情に表れている。


「……良かった」


 暫くして、フィリックスはぽつりと呟いた。


「迷惑に思われるだろうかと、心配してたんだ。……正直、先生の頼みだからと意識していたのは最初だけだった」


 雨の残香を乗せた風が吹く。エマの、結うことをやめたオリーブグリーンの髪を靡かせて。


 先ほどまでの緊張が嘘のように解け、言葉の代わりに笑みがこぼれた。


 それは、雲間からようやく覗いた太陽のように――金の瞳には、映っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る