エマの手段



「ハイネ、帰ってきて。……お願い」

「……契約を反故にするわけにはいかない。エマに何かがあったら、僕は……」


 なかなか頷いてくれないハイネに、焦りが積もっていく。このままだと、彼の魂は本当に消えてしまう。そんな結末は嫌だと、心が叫ぶ。


 ハイネがエマを大事に想ってくれている以上、何を言っても無駄なのだろうか。そんな思いが一瞬頭を過ぎるが、諦められるはずもなく、必死に考えを巡らた末――


 エマは、少々卑怯な手段を捻り出した。


 ちらっとハイネの顔色を窺いつつ、恐る恐る口火を切る。


「実は、私……死神の静止を振り切って、ここへ来たの。だから、ひとりで帰ったら殺される……かもしれない」

「な、何だって? あいつに会ったの!?」


 ハイネは衝撃を受けたように目を見開き、エマの肩を掴んだ。その反応に、エマは確かな手応えを感じる。


「えぇ。だから、その……ハイネ。……私を、守ってくれる?」


 卑怯な手段――つまり、自分の身の安全を盾に取った交渉。ハイネの、エマを想う気持ちを利用した作戦。ついでに、彼の手をぎゅっと握って、目を真っ直ぐに見つめて。


 きっと、あとでのたうち回ることになるだろうが、今は恥を気にしている場合ではない。


「……………………」


 そして、エマの捨て身の作戦は――……


「……ずるいよ、エマ……そんなの、断れるはずがない……」


 あっけなく成功したと言える。


「本当!?」


 ぱっと顔を輝かせたエマに、ハイネは眩しそうに目を細める。


「ゔっ……うん……だけど、契約のことはほんと、どうにかしなきゃ」


 ハイネの言うとおりだ。しかしエマは漠然と、自分は既にこの状況を打開する方法を持っているような気がしていた。


「とにかく、早く帰りましょう。ハイネ」

「……そうだね。君がずっとここにいるのは危険だ」


 嬉しそうなエマの笑顔に、ハイネは一旦、契約の心配を脇に追いやった。





 いつしか、モルス・マーレは真っ暗闇では無くなっていた。瞬く光が増え、ふたりの道を照らしてくれているかのようだ。


 美しい姿へと変化しつつあるモルス・マーレは、星の海と呼ぶに相応しい光景だった。


「……どうして、ずっと正体を隠していたの?」


 出口を目指しながら、エマは尋ねる。ハイネは気まずそうに視線を逸らしながら答えた。


「本来の体を失って、十一の頃の姿になって……しかも死神と契約した身の上で、エマと深く関わるわけにはいかないと思ってた。その前に、信じてもらえないだろうし」


 少年のハイネに出会ったあの日。初対面で『僕は君の父親なんだ』と明かされる想像をして、納得する。恐らくその時点で不信感たっぷりになって、回れ右をしていただろう。


「それに、エマにとって僕は、自分を手放した最低の父親だ。……嫌われるのが怖くて、言えなかったのもある。何より、契約の経緯は絶対に知られたくなかったのに……」


 ハイネは悔やむように項垂れる。そんな彼の手を強く握りしめ、エマは更に問いかける。


「でも、ハイネは自分から私に連絡をくれたでしょう」

「……エマには黙っておくように頼んでたけど、クルーガーさんとはずっと手紙のやり取りをしていたんだ。エマの里親が不自然な死に方をして、エマ自身が疑われかけていたことを聞いて……居ても立ってもいられなかった」


 それを聞いて、エマの心につっかえていた幾つかのものが、ようやく取れた気がした。


 ――カミラを通して、ハイネはずっとエマを気に掛けてくれていたのだ。それでいて、真実を全て隠したまま、たったひとりで消えようとしていた……


「帰ったら、たくさん話をしましょう。ハイネ」


 ハイネは暫くきょとんとしていたものの、エマの言葉に潜む棘にすぐ気付いたらしく、どこか焦ったように言った。


「……な、何だか本当に、エミリアに似てきたね……エマ」


 どういう意味なのか問い詰めようとしたところで、頭上にうっすらと天井のようなものが見え、そちらに気を取られた。エマは歓喜の声をあげる。


「出口だわ!」





 モルス・マーレを満たしていたものは水でも液体でもない〝何か〟だったが、顔を出した時には久しぶりに空気を吸えたような感覚に陥って、エマは激しく咳き込んだ。


 四つん這いになって呼吸を整えているうちに、ハイネの手を握っていないことに気付き、一瞬ぞっとする。


 しかしすぐに肩を抱き寄せられ、それがハイネによるものだと理解し、安堵した。


 ハイネはエマを庇うようにしながら、全身の神経を尖らせて警戒しているようだった。その視線は一点に集中している。その先をエマも見やると、そこには死神の姿があった。


 死神もまた、別の何かを凝視しているようだった。


「あれは……」


 死神が目にしているもの。それは、見覚えのあるモルス・メモリエだった。


 フリーダ・フォン・フレーベル。カミラ・クルーガー。ヨーゼフ・ファスベンダー。


 そして――ハイネ・ブラントの無念が描かれた、絵。

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