死者の導き


 ――海だというくらいだから、そこにあるのは海水か、少なくとも液体だろうと思っていたが、その予想は外れていた。


 息は出来るし、水圧も感じない。空を飛んでいるような浮遊感さえある。


 ただ、辺りは見渡す限り真っ黒だ。999枚目のモルス・メモリエが納品されれば自動的に浄化されるものだと思っていたが、違うのだろうか。そんな疑問も浮かんだが、すぐに消えた。今は、ハイネの魂を探すことが先決だ。


 ぼんやりと浮かぶ白い顔が、エマを見ている。中には大口を開けて叫ぶ者もいた。


 ――生者がいるぞ。このモルス・マーレに!


 そんな声が聞こえてきて、あまり長居は出来ないと強く感じる。エマの魂は、死の色をよく覚えていた。気を抜けば飲み込まれてしまうだろう。


 極度の緊張を抱えながら、エマはモルス・マーレの中を彷徨い、ハイネの姿を探した。


 やがて、白い顔のひとつがエマの前に立ちふさがって、ぎょっとして動きを止める。しかし、その顔は見知った姿に変化した。半透明で朧気にしか見えないが、間違いない。


「あなた……フリーダ……?」


 フリーダは気だるげな眼差しをエマに向けたあと、「愚かな子……」と、長い溜息を吐いた。


「自分がどんなに愛されているか、気付きもしないで。自分は誰にも愛されていないだなんて思い込んで。その愛に気付いた瞬間、こんな危険なとこまで来てさ……」


 辛辣な言葉ではあったが、エマは否定出来なかった。


「……そうね。本当に愚かだったと思う。何も、気付けなくて……」

「まぁ、気付いただけマシなんじゃない。それに、あなた達が知ろうとてくれたお陰で、あの家の闇を引きずり出すことが出来た。それには……感謝してる」


 フリーダはそう言うと、すっと右方向を指差した。


「あっちよ。……じゃあね」


 ふっと、フリーダの姿が薄くなっていく。完全に消えてしまうその前に、エマは言った。


「あ、ありがとう、フリーダ!」


 最後に、フリーダはべっと小さく舌を見せ、その姿を消失させる。


 あの絵で見た、可憐な少女とは全く印象の違う彼女の人柄に、不意打ちを食らった思いだ。もっと長く話すことが出来たなら、きっと更に意外な一面を知れただろう。


 しかし、彼女は死者だ。今はもう、彼女の安らかな眠りを祈るしかない。





 フリーダが指し示した方向に進む。闇をかき分けて、必死に進んで――次に見えたのは、カミラ・クルーガーだった。息を呑んだエマに、カミラは片目を眇めて見せる。


「言ったでしょう、エマ。ご両親の愛を否定するのはやめなさいと」

「……カミラさん、私……」

「私からあなたに教えられる事は、もうありません。さ、ぐずぐずしてないで早く行きなさい」


 カミラはそっと、エマの手を引いて方角を示してくれた。視線を交わし、しっかりと頷く。


「はい。ありがとうございました、カミラさん。あの日、私を引き取ってくれて」

「あら。……こちらこそ、たくさんの素敵な思い出をありがとう」


 そして、カミラは満面の笑みを見せた。生前も見ることが出来なかった、親しげな笑みを。





 次に出会う人物が誰なのか、もう分かっていた。


 これが、エマと縁を結んだ死者たちの導きなのだとしたら。


「……先生!」


 ヨーゼフ・ファスベンダー。きっと彼も、ここにいるだろうと。


「エマ」


 両手を広げるヨーゼフのもとへ、エマは飛び込んだ。


 あぁ、どうして。生きている間に一度でも、こうすることが出来なかったのだろう。


「ずっと……ずっと言いたかったんです、先生」


 やせ細った体に縋り付き、エマは大きな声で、はっきりと伝える。


「私、先生に出会えて幸せでした。私を見つけてくれたことが、本当に嬉しかった……!」


 ヨーゼフは黙ってエマの言葉を受け止め、少し不器用に頭を撫でた。それだけで、全てのわだかまりが解けていくようだった。


「……儂の心に、今も鮮烈に残っている光景は」


 懐かしい、低く嗄れた声が響く。


「あの、燃えるような夕焼けだ」


 最後に、ヨーゼフはエマを抱きしめる腕に力を込めた。


「もっと早く、こうしてやれば良かったな……エマ」


 後悔を僅かに滲ませたその言葉に、エマは想う。ヨーゼフとエマ。ふたりは多分、自分の気持ちを伝えることがどうも苦手で、そういった意味で似たもの同士だったのだろうと。


 でも、もう大丈夫。互いの気持ちがすれ違うことはもうない。


 ――絵画の魔術師によって描かれた、一枚の絵のおかげで。


「彼はこの先にいる。行きなさい」


 ヨーゼフの手が、優しく背中を押してくれる。


「気を付けてな、エマ。怪我をするんじゃないぞ」

「はい。……いってきます、先生」


 生前、ハーブ畑や図書館へ出かけるエマに、ヨーゼフが必ずかけてくれていた言葉。そんな些細なやり取りに、彼の想いは詰まっていた。今ならそれがよく分かる。


 ヨーゼフの姿が遠ざかっていく。後ろ髪を引かれる思いはあったが、これ以上の迷いを見せると、きっと怒られてしまう。


 エマはもう振り返ることなく、その先へと進んだ。


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