死の記憶
◆
――意識がエマ自身のもとへ回帰し、辺りが静けさを取り戻しても、未だ雨の音が耳に残っている。この場に立っている心地がせず、ふわふわと体が浮いたような不思議な感覚を覚えていた。
ふと、黒の帳が目に入った。絵ばかりが並ぶこの空間で、明らかに異質なもの。
何かに誘われるように、黒の帳を両手でそっと開いた。冷気が肌を刺すのを感じながら、エマの視線はだだっ広い空間の中央に吸い寄せられる。
そこには、ぽつんと置かれた一人用のソファーに腰掛ける、ハイネの姿があった。
光の加減で、微かに青みがかって見える銀の髪。輪郭は子どもらしい丸みこそあるものの、どちらかというと痩身。その幻想的とも言える美しさも相まって、儚げな印象を人に与える少年。シアンの瞳は今、瞼に閉じられていて、伏せた長い睫毛が影を作っていた。
眠っているのだろう。きっとそうだ。
「……ハイネ」
エマは、その名を呼んだ。自分の声さえ遠くで響いているように聞こえる。しかし、ハイネは目を覚まさない。
「起きて。ハイネ」
慌てて肩を揺すると、ハイネの手から何かが滑り落ちた。それを見て、ぎょっとする。
それは、いつかエマが描いた、ハイネの似顔絵だった。全然そんな風には見えない、むしろ絵と呼ぶのも躊躇するほどの出来なのに、ハイネが喜んで額縁に入れて飾った、あの――
「ハイネ! な、何でこんなもの持ってるの!?」
恥ずかしくなって、エマはハイネを揺さぶった。それでも、ハイネは目を閉じたままだ。
「こんな下手な落書き、捨ててくれたらいいのに! こんなの、どうして――」
目頭がかっと熱くなって、大粒の涙がぼろぼろと零れる。いくら堪えようとしても、全身の震えを抑えられなかった。
からかわれているのだと思っていた。本気でこんな絵を大事にしてくれているだなんて、誰が思うだろうか。
エマは何も知らなかった。理解しようともしていなかった。
――雨と涙に滲んだ、愛しているという言葉の意味を。
「ハイネ、起きて! 言いたいことがたくさんあるの! お願い、目を覚まして……!!」
許せない、こんな別れ方。このままでは、一生、自分のことを許せない。
ハイネに縋り付き、涙を流すエマに巨大な影が掛かった。顔を上げると、黒い靄の中に光る赤い双眸と目が合う。
「これは、こレは。思わぬ客人よ。魔術師め、何か隠しておると思ウたが……」
エマは暫くその好奇に満ちた眼差しを受け止めたあと、涙を拭って立ち上がった。
「死神……モルスね」
「……何故、我の名を知っていル。魔術師に聞いたか」
「ハイネの記憶を視たの。あなたが現れて契約してから、孤児院に預けられるまでの記憶。そのあとどうなったかは分からないわ。あのあと……」
視界が、再び揺らぐ。ぐっと涙を堪えてから、エマは続ける。
「あなたは、ハイネの命を取ったの? ハイネは、死んでるの……?」
「――ハイネ・ブラントは、人間としての生を終えテいる。ほんの、十六年ほど前に」
「じゃあ、ここにいるハイネは!?」
静かな空間に、悲痛な声が響いた。死神は双眼を細めて、エマを見据える。
「其れは、ハイネ・ブラントの魂を絵に憑依させたモノ。魂まで消えテは、契約を遂行出来ぬからな。……しかし、奴は既に最後のモルス・メモリエを完成させ、役目を終エた。先ほド、魂がモルス・マーレへと旅立ったところだ。その
――最後のモルス・メモリエ。ハイネ自身の、無念の絵。
『僕の夢かぁ。あ、人生最期の作品として、とびっきり可愛い女の子の絵を描かせてもらうことかな!』
そう、彼はそんなことを言っていた。あの時から既に、最期に描く絵が自身のモルス・メモリエだと――成長したエマを描くことになると、分かっていたのだろうか?
〝幸せを願う〟……それが、あの絵画の
「モルス・マーレへの道を開けて」
「……何だと?」
「ハイネの魂はまだ完全に消えてない。そうでしょう? だって――」
目を閉じて、そっと耳をすませた。
聞こえる。遠くから響くような声が。エマを呼ぶ声が。
「みんなが……死者たちが、そう教えてくれている」
エマは再び目を開く。――その瞳を見て、モルスは驚愕した。
薄茶色の瞳が、ぞっとするほど深い黒に染まっている。それは闇を覗く瞳。死神はその色をよく知っている。そして――空気を震わせるほどの、この気配。
風が、吹く。
「貴様……貴様も、魔術師……! しかも、其の力は……」
エマは手を床と並行になるよう掲げた。頭の中に言葉が浮かぶ。
そうだ、死神の力を借りる必要などない。だって、エマは……
「死の魔術――
かつて、モルス・マーレに喚ばれた者。
この世に生を受けてすぐ、魂の半分を死の海に浸した者。
死神の契約により、生者の世界へと引き戻されたこの魂には――モルス・マーレの記憶が、深く刻まれている。
硬質な床に亀裂が入る。ズズ、と重々しい音を立てて左右に分かれ、開かれた場所に現れたのは――黒い海だった。死者の顔が見え隠れし、呻き声が響く恐ろしい海、モルス・マーレ。
「こんな、ことガ……! あっテはならない。あってはならないことだ!」
死神が巨大な手へと姿を変え、エマに襲い来る。しかし、その鋭い指が届くより先に、エマはモルス・マーレへと身を投げた。
――恐怖心は、確かにあった。けれどエマは、死者よりも、死神よりも、生きている人間のほうがずっと恐ろしいと――今は、知っていた。
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