名前



     ◆


 ――モルス・マーレは何万、何億もの死者の魂を飲み込み続けている。そのうち死者たちの強い想いが蓄積し、海は漆黒に染まるのだという。


 強い想い――つまり、後悔。嘆き。悔恨。……無念。


「今もマた、漆黒の日ノクスが近付いてきてイる」


 死神は蕩々と語る。


 漆黒の日ノクスが来ると、モルス・マーレは死者の魂を受け付けなくなり、行き場を失った魂は生者の世界を彷徨うしかなくなる。モルス・マーレよりもずっと狭い生者の世界は、すぐに溢れかえってしまうだろう。待っているのは、生と死の崩壊だ。


 大体千年に一度の周期で漆黒の日ノクスの危機は訪れるものの、実際にその日を迎えたことは一度もない。それは偏に、死神とその契約者の暗躍故であった。


「契約の内容は、分かってイるな? モルス・マーレの淀みの原因、死者の未練ヲ魔術で封じるのだ。貴様の場合は、絵画が器とナるだろう。人の心を理解セぬ我には、出来ぬこと……」

「――あぁ、そうだね」


 気のない返事をして、部屋の壁に掛けられた絵画に視線だけを向ける。ここにあるのはほんの一部だ。ハイネは完成したあとの自分の絵に全く興味がなかったが、エミリアがどうしてもと言ったので飾ることになった。


 ハイネの絵は風景画や静物画が多い。しかし、中には彼女と出会ったばかりの頃の――十一の頃の自画像もあった。エミリアはそれが特に気に入っていると言っていた。


 そんな思い出さえも、今は苦しい。


「……今まデ幾人もの人間と契約してきたが、お前のようにふてぶテしい者は初めてだ。みな、我を恐れていたトいうのに」


 ハイネは答えなかった。妻を亡くし、娘まで失うところだったのだ。それ以上に恐れることなど、何があろうか。


 ハイネは娘の頬を、そっと指で撫でた。小さな口をはくはくと動かす姿に、心が溶かされていくかのようだ。しかし、ほんのひとときの親子の時間は別れを一層辛くさせる。決心が鈍る前にと、ハイネは確認した。


「……999枚。そのモルス・メモリエという絵を、描けばいいんだな?」

「その通リ。全て納品しきるまでは魂をこの世に留まらせ、モルス・メモリエを生み出すに必要な力を与えよウ。さしずめ、貴様の後援者パトロンといっタところか」


 死神が嗤う。


「さて、準備は良いカ? 魔術師よ」

「いや……待ってくれ。娘を、どこかに預けさせてくれ。この子ひとりでは生きていけない」


 酷く重い腰を上げる。頭に浮かんだのは、隣町にあるクルーガー孤児院という場所だった。





 ――小さな体を清潔な毛布にくるんで、覆い被さるようにして前に進む。


 雨が、一粒でも娘を濡らさないように。


 我が子を手放さなければならないなんて、あまりに辛く苦しいことだ。しかし、命が救えたのなら――自分から遠く離れたところでも、幸せに暮らしていけるのなら――


 それでいい。それで、いいのだ。


 クルーガー孤児院の呼び鈴を鳴らすと、背の高い女性が怪訝そうな顔で姿を現した。ハイネが抱いた赤子を見て、更に眉間の皺を深める。


「何を考えているのです? こんな生まれたばかりの子を、雨のなか連れ出して……」

「……お願いします。この子を預かってくれませんか」

「新生児はお断りしています」

「……何とか……お願いします」


 悲壮感を漂わせながら懇願する。何度か同じようなやり取りを繰り返した末、ようやく女性が長い嘆息と共に折れた。


「……分かりました。ご事情がおありのようですので。――誰か、新しいタオルを持ってきて!」


 様子を見に来た職員たちに、女性は大声で指示をする。ハイネは安堵しながらも、いよいよ訪れる娘との別れを嘆いた。


「その子の名は?」


 不意に尋ねられ、ハイネは動揺した。……そうだ、この子にはまだ名前がない。エミリアと幾つか候補を出してはいたが、最後は娘の顔を見てから決めようということになっていたのだ。


 改めて、ハイネは我が子の顔に視線を落とす。娘はいつしか目を覚ましていて、薄茶の瞳が不思議そうにこちらを見上げていた。


 顔立ちは母のエミリアによく似ていて、天使を模した彫刻のように美しく整っている。しかし、気のせいだろうか。その眼差しだけは、どこか自分を見ているようだった。


「――エマ」


 ハイネは、エミリアと考えた候補の中から、ひとつの名前を選び出した。


「エマ・ブラント……それが、この子の名前です」

「良い名ですね」


 頷く女性の背後から、別の職員がタオルを持って駆け寄ってくるのが見えた。


「私はカミラ・クルーガー。この孤児院の院長を務めています。エマを責任持ってお預かりしましょう」

「……ありがとう、ございます」


 カミラの両手が差し出され、ハイネはエマをそっと渡そうとした。丸い瞳はまだハイネを見つめている。魂が引き裂かれそうだった。


 ――きっとこの子は、自分を捨てたと父を憎むだろう。

 もしくは、どこまでも無関心に育つだろうか。


 それでもいい。ただ、


「愛しているよ、エマ」


 ただ、その想いだけは伝わってほしかった。自分を、愛されていない子だと思ってほしくなかった。それが例え憎しみの対象でも。顔も知らない無関心な相手でも。


 ――君は、愛されて生まれてきたのだと。

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