悲劇の夜
――再び、雨の音が世界を支配する。
窓を叩き付ける雨の音をかき消すように、男は電話に向かって叫んでいた。
「早く来てくれ! 妻が、エミリアが、もう――」
男の傍では妻がベッドに横たわっており、苦しげに呻いている。その顔は真っ赤にむくみ、汗が止めどなく流れていた。その姿が男の焦燥を煽るが、電話から聞こえた返事は残酷だった。
――馬車が、足止めを食らっているんだ。この雨で、土砂崩れが……いつ到着できるか目処は立たず……
男が電話を叩き付けると、ベッドのほうからか細い声が聞こえた。妻が呼んでいる。男は妻の手を取り声を絞り出した。
「エミリア、すまない。もう一度他をあたってみる。だから、もう少し――……」
「……いい……の、私は、もう……」
焦点の定まらない目で、エミリアは必死に夫の顔を探した。
「でも……わた、しの、私たちの子……だけは、守って……」
それから。ふたりの子は、確かにこの世界に生まれ落ちた。
しかし、その赤子は泣き声をあげなかった。心臓の動きは極端に弱々しく、呼吸も微か。男の手の中で、今にも儚く消えてしまいそうな小さな命。
「ハイネ……泣き声が、聞こえないわ……赤ちゃんは、どうなった……の……」
男は――ハイネ・ブラントは。全身の震えを必死に抑えながら、嘘をついた。
「……元気な女の子だよ、エミリア。僕たちの娘は、元気に生まれてくれた……」
その嘘に、エミリアの虚ろな目から一筋の涙が零れる。
「よか……った……」
それがエミリア・ブラントの、最期の言葉だった。
――続けて、娘の呼吸も止まった。
知る限りの蘇生法を試みても何一つ身を結ぶことはなく、自分のものよりずっと大切な命が、ふたつも手から零れようとしたその時。
ハイネは、この世のものではない存在を視たのだ。
「やはり魔術師か。なかナか、悪くない力を持ってイる……」
いつしか、黒く、濃い霧のようなものが部屋を漂っている。その中心で、血の如く赤い双眸がハイネを見つめていた。口と思えるものは見当たらないが、声は不気味に響いている。
その姿から、お前は死神かと譫言のように尋ねると、双眸が緩やかな弧を描いた。
「我が名はモルス。死者の海、モルス・マーレを司ル者。死神といウ呼称も当テはまるダろう」
「……死神ならば、頼む。娘まで連れて行かないでくれ……」
極限まで追い詰められ、子供じみた懇願を口にするハイネに、死神は言った。
「ならば、取引をシようじゃないカ、魔術師よ」
「取引……?」
「元々そのつモりで、我は姿を現シた」
黒い霧が一カ所に集結し、部屋の半分を覆い尽くそうかというほどの巨大な手を形作る。人間の骨より細く長い指が、生まれたばかりの赤ん坊に突き付けられた。
「其の赤子の命は、既にモルス・マーレに喚ばレている。このままデは死は避ケられぬダろう。しかし我ならば、その喚び声を鎮めルことが出来る。代わリの命さえ用意すれば」
「ならば僕の命を差し出す!」
迷いなどあるはずがなかった。娘を救えるならば、この命に悔いは無い。
しかし、死神は凍えるような声でこう言い放った。
「貴様の命ひとつでは足リぬ。其の力を我の為に注グのだ、絵画の魔術師、ハイネ・ブラント」
手の形が崩れ、死神は再び部屋全体を覆う影となる。影はハイネを包み込み、とある光景を脳内に流し込んだ。
空には星も月も浮かばず、黒い絵の具をべたりと塗りつぶしたかのよう。同じく黒い海は荒れ狂い、その波間からは無数の白い顔が見え隠れしていた。全ての顔が何かを叫んでいるようだが、ハイネの耳には届かない。心の底から震え上がるような、恐ろしい光景。
ハッと意識が戻った時には、死神の言う〝契約〟の中身を、魂で理解させられていた。
「どうだ、魔術師よ」
ハイネは娘の顔を覗き込みながら、答える。
「……僕の答えは変わらない。さっさと始めてくれ」
ハイネ・ブラントと死神モルスの契約は、こうして結ばれた。
死神の手が赤子の額に触れる。蒼い炎がふっと一瞬立ち上り、すぐに消える。
――そして次の瞬間、ハイネは、娘の泣き声を初めて聴いた。
娘の声だけをずっと聴いていたいのに、自分の嗚咽も抑えきれず、ふたりの声が混じり合う。
それは悲劇の夜を唯一彩った、小さな希望だった。
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