999枚目の絵
「――ハイネ!」
がばっと起き上がって、伸ばした手は空を掴んだ。荒い呼吸を繰り返している内に、喉が鋭く痛み、思わず咳き込む。
どれほど眠っていたんだろう?
周りを見回すと、ベッドサイドのテーブルに手紙が置いてあることに気付く。フィリックスからだった。そこには、エマが倒れてからの出来事が丁寧に記されている。
手紙を読み終えベッドから抜け出し、窓の外を見た。雨が降っている。
――雨の音はいつも、漠然とした不安をエマにもたらした。
微かに曇った窓ガラスを手で拭い、しばし外を眺めたあと、エマは棚の引き出しを開ける。いつも一番上に置いてある、ハイネから初めて届いた手紙を取り出した。彼に、会うために。
しかしそれを見た瞬間、全身が凍り付いた。
その手紙に描かれた美しい絵。ローシェンナの屋根の家が、消えている。
「――どうして……?」
心臓が嫌な音を立てて軋む。エマは茫然と手紙を眺めたあと、衝動的に外へ出る準備を始めた。目に付いた服に着替え、靴を履き、傘を引っつかむ。髪は結わえる気にもなれなくて、いつものリボンを置いたまま、家を飛び出した。
冷たい横殴りの雨に打たれながら、リンベルクの町を走る。白い息が滲む。小さな傘はあまり意味を成さず、体はすぐに濡れたが、構わなかった。
だが、路地裏に入ったところで足を止めた。――どこに向かえば、あの家に繋がる道にたどり着けるのか――記憶がすっぽりと抜け落ちていることに気付いたのだ。
そうだ、確かこれはハイネの魔術だった。ローシェンナの家を外界から隠すための魔術。絵を持っている人間でないと、たどり着けないようになっていると言っていた。
それでも諦めきれず、唇を噛みしめ闇雲に道を探す。走って、走って、そして――
――それでも、やはり見つけることは出来ない。
雨や泥が跳ねた足で、エマは立ち尽くした。嘘でしょう、と零れた声を、雨の音がかき消す。
……こんなに突然、あっけなく別れるような間柄だっただろうか。一緒に過ごした期間はほんの数日かもしれない。けれどその時間は掛け替えのないものだったし、事実、ハイネはエマを大切に想ってくれていたはずだ。それは、エマだって同じだったのに。
絶望し、途方に暮れたその時。道の先に、ひとりの女性の輪郭が浮かび上がった。
ぼんやりと白く輝いて見えるその姿に、疲れで目がおかしくなったのだろうかと擦ってみるが、見えるものは変わらない。
女性は、ゆっくりとこちらに向かって手を伸ばしてきた。まるで握手を求めるように。
明らかに人間ではない、異質な存在だ。でも、エマは不思議と恐怖を感じなかった。それどころか、その手を取ってみようと思った。
傘が滑り落ちたことにも気付かず、エマは歩き出す。徐々に足を速め、最後には駆け出した。途中で、輪郭だけだと思っていた女性の顔がうっすらと見えていることに気付いた。
手を伸ばした先にいる、その女性の顔に、エマはハッと息を呑み――……同時に、ふたりの手が触れる。
視界を覆う閃光。そして、
「――……!」
雨の音が消える。恐る恐る目を開けると、そこに女性の姿はなく、エマは別の場所に立っていた。一度しか来たことがない、けれど鮮明に覚えている。ここは、ハイネの画廊だ。
動揺している暇はなかった。
「ハイネ! ここにいるの!?」
エマは大声で叫びながら、ハイネの姿を探した。
幾枚ものモルス・メモリエが、視界の端で流れていく。これらの絵を納品しているのだと話していた、ハイネの言葉を思い出す。そしてその納品先は死神と呼ばれる存在だとも明かした。
嫌な予感がする。
エマはひたすらハイネの名を呼びながら画廊を駆け抜け、ついに突き当たりへと差し掛かった。その壁には、どの絵よりも巨大なモルス・メモリエが飾られている。
つい視線が吸い寄せられて、それが何の絵なのかを理解した時、エマは思わず立ち止まった。
「これって……」
――それは、柔らかで優しい色彩によって描かれた、微笑むエマの絵画だった。
実際のエマよりも五つか六つは大人びて見えるが、確かにエマだ。オリーブグリーンの髪、淡いブラウンの瞳。今のエマと同じように髪を下ろしているが、もう少し長いように見える。
それにしても、自分の絵と目を合わせるのはとても妙な気分だ。それ以上に、ここに飾られているということは、すでに亡くなっている人間の無念ということで。
エマは不可解に思いながら絵に近付き、その下に飾られたプレートを覗き込んだ。確かここに作品ナンバーと作品名、そして死者の名が記されていたはずだ。
曰く、作品ナンバーは999
作品名は『幸せを願う』。
そして、死者の名は――……その、名は。
ハイネ・ブラント――と。
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