絵画の魔術
ドンッと地面が縦に揺れたかと思えば、ゾフィーの背後に不気味な影が現れる。電球の灯りに照らされて徐々に姿を見せたのは、高い天井を突き破らんばかりの巨大な女性――の、上半身だった。その顔や体は絵の具によって描かれたもののように見え、表情は微笑んでいるものの、それがかえって恐ろしい。
その女性、エンデ夫人は木箱や樽を破壊しながら、中心にいるゾフィーを抱擁するように両腕を寄せる。ゾフィーは真っ青な顔で叫ぶ。
「げ――
直後、エンデ夫人の抱擁は確かにゾフィーを捉えたかに見えた。しかし、ゾフィーの体は幻のように消えてしまう。
ハイネは視線だけで行方を探しつつ、何かの形を描くように宙で筆を動かし唱えた。
「
ハイネの足下から、青々とした草原が瞬く間に広がる。木箱や樽、電球、天井、壁、倉庫の中のもの全てが消え去り、空が見え、雲が流れ、太陽が昇った。そこはまさに、昼中の草原。
視界を遮るものは無くなったが、それでもゾフィーの姿は見当たらない。ただ、声が響いた。
「鏡像の魔術、き――」
「『夜の
その声を遮るように、ハイネは素早く告げる。刹那、草原を照りつけていた太陽を分厚い雲が覆った。雷鳴が轟き、草原に黒い雨が降り注ぐ。
小さく悲鳴があがったほうに視線をやると、どろりとした黒い液体が人の形を浮かび上がらせていた。花に守られているエマには分からなかったが、この雨は粘度があるらしい。
ハイネが筆を軽く回転させると、ふっと雨が止み、景色が元に戻った。ゾフィーの魔術も解け、山積みになった木箱の上に倒れているのが見える。意識はあるようで、慌てて起き上がろうとしていた。しかしそれさえ許すまいと、ハイネは立て続けに唱える。
「
慌てて起き上がろうとしていたゾフィーは、突如飛来した数本の光輝く矢によって磔にされ、身動きが取れなくなる。ちょうど、先ほどのエマと同じように。
「うっ……ぐ……」
手足を傷だらけにしながら何とか逃れようともがくゾフィーに、ガシャ、と重々しい足音が近付く。漆黒の鎧を纏った騎士だ。人には思えぬ禍々しい唸り声をあげ、ゾフィーの喉元にその切っ先を突き付けた。
あまりに圧倒的だ。同じ魔術師だというのに、ゾフィーは手も足も出なかった。
「死ぬのは嫌かい? 自分は人を殺しておいて、身勝手だね」
ガタガタと震えるゾフィーに、ハイネは語りかける。その瞳は、見る者の心を凍らせるほどに冷たい。不穏な空気に、エマはハイネを止めようとした。しかし――
「安心して、殺しはしないよ。まだ親玉を引きずり出せていないからね。……だから少しの間、眠ってて」
ハイネが筆を軽く掲げると、騎士が剣を持ち替え大きく振り上げた。刃のない、背の部分でゾフィーを打とうとしている。しかし剣が振り下ろされるより早く、ゾフィーが呟いた。
「『
鏡が反射するかのような光に目が眩む。次にハイネが見たのは、エマの姿だった。
――当然、分かっていた。それが魔術で姿を変えたゾフィーであることを。顔にはヒビが入り、すぐに崩壊するであろう不完全な魔術。
それでも。ハイネはほんの一瞬、躊躇った。エマの姿をしたそれに、武器を振り下ろすことを恐れた。術者の心の乱れは絵画にも影響し、騎士の動きがぴたりと止まる。
「鏡像の魔術、
ゾフィーは、砕けゆく唇を歪ませて笑った。
「ハイネ、上!!」
エマはあらん限りの力を込めて、絶叫した……刹那。
金属が擦れ合うような、ゾッとするような音と共に巨大な刃が落ち、ハイネの腕を切断した。
宙を舞う。数々の絵画を、死者の無念を描き出した、その腕が。
エマは叫んでいた。桃色の花が光と共に消え、転びそうになりながら、倒れゆくハイネの元へ駆け出した。そこまで距離は離れていなかった筈なのに、永遠に辿り着かないのではないかと錯覚するほどに……あまりに……遠い。
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