第8章 魔術師

遺された言葉の意味は



 そこは通称、灰レンガ倉庫と呼ばれる場所だった。


 住宅地から離れた位置にあるその建造物は、まだ領地同士の争いが頻発していた頃、ヴォルフガング傭兵団が貯蔵庫として利用していたらしい。が、十年ほど前から使われなくなり、今は空き倉庫と化しているという。


 中は、百五十人程度であれば難なく寝泊まり出来そうな、だだっ広い空間だった。


 壁沿いには木箱や樽が乱雑に積み上げられており、蜘蛛の巣も散見される。灯りは、高い天井からぶら下がった電球が複数のみ。窓も見えるが、月のない夜に差し込む光はない。


 エマが周りを確認している間に、フィリックスは南京錠で鉄の扉を閉めていた。風の音も遮断され、シンとした倉庫にふたりだけが取り残される。


「電話に、気付いてくれたの?」

「あぁ」


 エマはホッとして、肩の力を抜いた。ひとり夜道で身を隠していた時と比べれば、今の状況はずっと安全だ。信頼する人が傍にいるのだから。


 しかし、漠然とした不安は増すばかりだった。まだ、根本的な問題は何ひとつ解決出来ていないせいだろうか?


「遅くなってすまなかった。……首、怪我をしたのか」

「えぇ、でもそこまで深くはなくて――……」


 ふと顔を上げると、エマの首に触れようと手を伸ばすフィリックスに気付き、思わず固まってしまった。


「え? あの……」

「傷を見せてくれ」


 心臓が震えた。こんなにも寒いのに、頬が熱を帯び始める。耳の下あたりにフィリックスの指が触れたところで、ついに耐えられなくなりぎゅっと目を閉じた。


 フィリックスは傷をよく見るためか、エマの束ねた髪を持ち上げる。冷えた空気が肌をかすめ、そして――バチン、という音と共に、首が軽くなるのを感じた。驚いて、目を開ける。


「――――え?」


 息を呑んだ。疑問で頭の中が埋め尽くされる。


 フィリックスは、チェーンの切れたペンダントを手に持ち、じっと見つめていた。


 ハイネからもらった、彼とエマを繋ぐただひとつの手段を。


「……フィリックス?」

「動くな」


 金切バサミの鋭い先端を眼球に突き付けられなくても、エマは動くことなど出来なかっただろう。フィリックスはエマのポケットから見えていた催涙スプレーを抜き取ると、床に落とし、片足で踏みつぶした。割れた容器の中から液体が零れ、エマの動揺と共に広がってゆく。


「どうして」


 ひりつく喉で絞り出せたのは、それが精一杯だった。フィリックスはペンダントをポケットに入れ、金の目を細めて――穏やかに、微笑む。


「理由を知れば、お前の心は軽くなるか?」


 膝を折れてしまいそうになるのを、反射的に堪えた。今崩れてしまえば、二度と立ち上がれない気がする。


 苦しい。でも、この理不尽に負けたくない。まだエマは目的を果たせていない。ヨーゼフの死の真相を知るという目的。ハイネと共に目指した、終着点。


 歯を食いしばって顔を上げた。フィリックスは木箱の上に置かれていたロープを手に取っている。事前に準備していたのだろうか。フィリックスは、ずっとエマを害する機会を狙っていた? 何のために?


 ――いや、考えるべきはそこではないと、本能が告げている。エマはフィリックスと再会してからもずっと、正体の分からない不安を……いや、違和感を覚えていた。


 長く続く緊張状態に鈍らされていた感覚が、ようやく研ぎ澄まされていく。


 そしてその先に、まるで雷で打たれたような閃きがあった。


 唐突に。本当に唐突に思い出し、結びついたのだ。


 エマが初めて聴いた死者の声。寡黙なヨーゼフが残した、たった一言を。



 エマの言葉に、ロープを手に近付いてきていたフィリックスが立ち止まる。


「――何が、違うんだ?」

「……そう、違う……違うの」


 エマは一瞬だけ高い天井を仰ぐと、視線を戻し、目の前の男を真っ直ぐに睨み付けた。


。彼の目の傷は、左側よ」


 フィリックスは――いや、その何者かは驚いたように息を呑み、ロープを取り落とした。そして、そっと自分の右目の傷に触れたあと、そのまま両手で顔を覆う。


「あぁ――」


 指の間から覗く金の瞳が、割れる。比喩ではない。本当に割れのだ。

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