ナイフ



 赤の正体、血のような唇の両端がにいっと不気味につり上がる。


 初撃が空を切れば多少なりともバランスを崩したはずだが、女はそのようなことを感じさせない身のこなしで間合いを詰めてきた。


 しなやかな第二撃。間違いなく、殺人のための訓練を受けている。


「――――」


 フィリックスは心臓を突く一閃を躱すと、伸びた細い腕を掴み捻り上げた。


 女は僅かに目を見開いたが、それもまさに瞬時。腕があらぬ方向に曲げられるより速く体ごと反転させ、その勢いを利用して蹴りを繰り出した。


 刃物を仕込んだヒールの先がフィリックスの腕を裂き、血を見た女は歓喜の声をあげる。


「あぁ、やっぱり美しい赤!」


 しかし、悦んだのも束の間。女は――スカーレットは、ぞくりと背筋を凍らせた。


 傷を負った腕の向こう、夜に輝く金色の瞳は、あまりにも冷静にこちらを凝視しているように、見えて。つまり、観察されていて。


 あっと声をあげる間もなく、今度はフィリックスがスカーレットの手を蹴り飛ばし、ナイフが宙に舞った。つい、その銀の軌跡を目で追ってしまう。


「命を奪おうって時に――」


 スカーレットの腕が、強い力で掴まれる。そして、スカーレットの体はいとも簡単に翻され、気付いた時には鍛え上げられた腕に首を締め上げられていた。


「余計なことに気を取られているから、こうなるんだ」

「くッ……」


 足が地面から浮く。何とか脱出できないかと抵抗を試みるが、上手く力が入らない。


 あぁ、殺されるのかしらと、徐々にぼんやりとしてきた頭で思う。


 であれば最期に、スカーレットは赤に染まりたいと願う。


 この忌まわしい黒髪を塗り潰してしまうほど、深くて濃い赤に。


 本当は黒い髪が嫌いだった。生みの親を思い出すから。


「ナイ、フ……」

「?」

「使い、なさい……な……」


 戦闘中も、彼はずっとジャンのナイフを握りしめていたのに、一度も使おうとしなかった。まさか、女だからと妙な情けを掛けられているのだろうか。


 しかしフィリックスは、吐き捨てるように言った。


「これは、バシュレがエマを傷つけた証拠だ。汚すわけにはいかない」


 スカーレットは驚き、そして恐れた。


 ――そんな理由で、このわたくしと、素手で戦ったというの。


「…………」


 スカーレットの視界が、恋い焦がれた赤ではなく白に染まる。意識を保てたのは、そこまでだった。


 白目を剥き、がくりと脱力した女を手放し、フィリックスは小さく息を吐いた。この女とジャンをさっさと縛り上げて、一刻も早くエマを見つけなければ。


 店先に吊してあったランプを手に取り、しゃがんで地面を観察する。そこには幾つか血の跡があった。ずっと続いているわけではないが、どうやらエマは西のほうに向かったらしい。


「……エマ」


 月の無い夜道に消えた少女を憂いながら、フィリックスは立ち上がった。







 エマは路地裏に身を隠し、辺りの様子を窺っていた。表通りでは複数の傭兵が巡回している。今のエマの立場では、助けを求めるどころか見つかるわけにはいかない。


 唐突に目眩がして、壁を背にしてその場に座り込んだ。首に手を当てると、ぬるりと生暖かい血が付着する。催涙スプレーによってジャンが暴れ出したとき、彼が突き付けていたナイフがエマの首を切ったのだ。傷自体はそこまで深くないものの、出血と極度の緊張状態、ジャンに殴られた頬の痛み、そして寒さがエマの体力と気力を奪っていた。


 そんな中、思い浮かんだのはハイネの顔だった。


 ロケットペンダントを取り出す。危険が迫った時にこれを使えとハイネは言っていた。さっきはナイフで脅されていたせいで触れることも叶わなかったが、今なら――……


「エマ!」


 朦朧とした意識が覚醒する。この声は。


「フィリックス……!」


 傭兵団の中でも、唯一信頼出来る相手。


「とりあえず場所を移動しよう。ここは危険だ」


 フィリックスは目で方角を示し、声を落として言った。巡回中の、他の傭兵を警戒しているのだろう。エマは頷き、差し出された手を取った。

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