殺意


 そこへ現れたのが、コルネリウス・フォン・フレーベルだった。遠い町に住む貴族だといい、孤児を引き取るためにやってきたと、後から聞いた。


 さっきまでの興奮はすっかり冷めていた。それどころか、ジャンは怯えて震えていた。


 バレた。見られた。ジャンはナイフを持っていたが、それで相手をどうこうしようとは思えなかった。だって、相手は大人だから。男だから。……きっと自分より強い存在だからだ。


 男の傍には、黒髪の少女が控えていた。ジャンよりも4つほど年上だろうか。少女は息を呑むほどに美しく、しかしその瞳には狂気が光っていた。


「お父様、血よ! 真っ赤で綺麗ですわね!」

「スカーレット、駄目だよ。他の人に聴かれたらどうするんだ」


 娘の頭を撫でて宥め、コルネリウスは茫然とするジャンに尋ねた。


「……君、名前は?」


 ――それから、話は早かった。孤児院での事件は不審者によるものとされ、ジャンはコルネリウスに引き取られた。


「私は、君の残虐性を買ったんだよ」


 リンベルクという町に向かう馬車の中で、コルネリウスは微笑みながらそう言った。


「君やスカーレットのそれは、ある意味で才能だ。まともな社会生活は望めないだろうが、私のもとでなら生きていける。人々のに立つ者としてね」


 その言葉は、ジャンの心を掴んだ。コルネリウスはそういう男だ。人が何を望んでいるのかを理解し、そして叶えることが出来る。それに失敗したとしても、口を封じることが出来る。コルネリウスはジャンに、暴力以外の力もあるのだと教えた。


 ――力! ジャンにとってコルネリウスは力の化身だった。だから従った。姉のスカーレットのほうが様々な面で有能と見なされているのだけは気にくわなかったが、その評価もいつかは逆転するだろうと信じていた。あの日、己の手で少女を殺した時の全能感が、今もまだジャンの胸に残っていたから。


「くそッ、エマ、エマ・ブラント……!!」


 憎しみを込めて呟きながら、よろめきつつ外へ出る。


 まだ目は完全に回復してはおらず、妙に世界が白んで見えていた。しかしそんな状態でも、目と鼻の先に迫り来るものが何なのかは理解出来た。


 ――拳だ。


「がッ?!」


 凄まじい威力を持った、石のような拳がジャンの顔に埋まる。鼻がバキッと音を立てて折れ、血が勢いよく噴き出した。その向こうでは、恐ろしい形相をした男が立っている。


 男はジャンが倒れることも許さず、今度は片手で顔を掴んできた。こめかみに指が食い込む。そのまま頭蓋骨を割る勢いで。


「……う、が……ッ」

「エマはどこだ」


 指の間から、金色の目が獰猛に光る。猛禽が捕食対象を射貫くかの如く。


 ――フィリックス・アイゼン。


 そうだ、この男も〝力〟を持っていた。コルネリウスとは違う、ただただ純粋な力。


 本物の戦場で培った、敵を制圧する力を。


「――……ッ」


 声を発することも出来なくなったジャンを、フィリックスは黙って地面に叩き付けた。そしてファスベンダー薬店の中をのぞき込み、叫ぶ。


「エマ、どこだ! 返事を――……」


 目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。


 争った形跡のある部屋。横転した椅子の傍ら、床と壁に付着した血の跡。人の気配はない。


 ハッとして振り返ると、地面に倒れ込んだジャンのすぐそばに、血のついたナイフが落ちていた。それを拾い上げ、最悪の事態を想像する。


「バシュレ! おい、エマに何をした。彼女は今どこだ?!」

「うぅ……知ら……ね……」


 胸ぐらを掴み上げて問いただすと、ジャンは呻きながらそう答えたのを最後にがくりと気を失う。エマは逃げられたのだろうか、と希望が芽生える。


 フィリックスがエマからの電話を取ったのは、何度もコールが続いたあとだった。エマのアリバイを証明していた馬車の乗車記録について改めて調べ、帰宅したところで電話の音に気付いたのだ。


 受話器から聞こえて来たのはエマとジャンの会話だった。最初は混乱したが、これはエマが意図的に聞かせているのではないかという推測が頭をもたげた。


 間もなくジャンがエマを脅している声が聞こえ、それ以上は考える暇もなくすぐに家を飛び出したのだが、来てみると案の定だった。ファスベンダー薬店で使われていた電話の受話器は、カウンターに伏せられたままになっていたのだ。


 女が一人で暮らす家に突然、自分を敵視している男が訪ねてきたのだ。きっと恐ろしい思いをしたに違いない。そんな中でも機転を利かせ、逃げおおせたとしたら驚くべきことだ。しかし彼女なら、やってのけたに違いないと思えた。


 ただ怪我をしているようだし、すぐに探し出さなければ……とまで考えて、フィリックスの頭は間髪を入れずに切り替わった。


 ――殺意だ。


 振り返った時には、既に凶器が目と鼻の先まで迫っていた。鈍く光る銀色の切っ先は、一切の迷いなく命を奪わんとしている。


 フィリックスは咄嗟に上体を捻った。すんでの所で、ナイフが空を鋭く裂く。


「あら、野生動物並みの勘と反射神経――」


 未だ銀の残像が残る中で、フィリックスは鮮烈な〝赤〟を見た。


「わたくし、あなたの血の色を見てみたいわ」



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