身を守る手段
――あぁ、本当に、何も出来ない。
子どものころに読んだ物語の主人公のように、ピンチを切り抜けるための能力に都合良く目覚めることもない。ハイネに貰ったペンダントも、首に凶器を当てられている状態では手を伸ばすこともできない。
この男の言うとおり、圧倒的な力の前ではひれ伏すしか無かった。これが現実なのだ。
「動くなよ? あの院長の女のようになりたくなかったらな」
ジャンは興奮を隠しきれない様子で、舌なめずりをする。エマは呼吸が上手く出来ず、激しく体力を消耗しているかのように肩を上下させていた。
そんな中。ふと、手に何かが触れた感触があった。おそらく、エマが倒れた時にポケットの中から転がり落ちたのだ。
息を呑む。そうだ。……そうだった。
「ストリップショーもいいが……やっぱこっちだなァ」
ジャンはエマの胸ぐらを掴んでいた手を離し、ブラウスのボタンとボタンの間に指を差し込んだ。引きちぎるつもりだ。
エマは転がっていたものを握りしめると、目を瞑って、ありったけの声で叫んだ。
「フィリックス!!」
「?!」
突然飛び出した上官の名前に、ジャンは反射的に扉のほうを振り返った。しかし扉は閉まったまま。向こう側に人の気配もない。
ジャンは内心ホッとしつつ、エマを嘲るために視線を戻した。
「なんだお前、恐怖のあまり助けが来た幻覚でも――」
見たのか、と。最後まで言い切ることは出来なかった。
ジャンの目の前に、何かが突きつけられている。それはナイフの切っ先でも、銃口というわけでもない、あまりにちっぽけなものだった。
しかし、そのちっぽけなものこそが。
力を持たない者が、身を守る数少ない手段だ。
「な――……」
エマは、そのスプレーをジャンの三白眼をめがけて一気に噴射した。赤い液体が視界を覆い――待っていたのは、耐えがたい激痛。
「がああああああッ!!」
ジャンは両目を押さえて崩れ落ち、床の上でのたうち回る。手の隙間から、ぼろぼろと止めどなく涙が零れた。
「ぐ、あああ、あ――――ッ!! 痛ええええええ、くそおおおおっ!!」
エマはその隙にふらふらと立ち上がり、倒れ込むようにして店の外へ逃げ出す。
外はすっかり日が暮れていて、元々人通りの少ない道には誰の姿もなかった。――もしいたとしても、エマは傭兵団に追われる身だ。簡単に助けを求めることはできない。
とにかく今はジャンから離れるために、エマは夜の町を駆け出した。
◆
――同時刻。
ハイネは、筆を握りしめたまま完成したばかりのモルス・メモリエを見つめていた。
カミラ・クルーガー。クルーガー孤児院の院長を務めていた女性。
彼女の死に関してはあまりに情報が足りず、
苦労の末、ようやく描き上げたカミラの無念。それはとある夜の光景だった。
彼女が殺された日? いや違う。空に浮かんでいるのは満月だ。あの日は満月ではなかった。満月だったのは、ヨーゼフ・ファスベンダーが殺された日だ。
モルス・メモリエの中に、ただひとり描かれた人物。ファスベンダー薬店から慌てて出て来た様子の、その人は。
◆
「ぐ、うう……くそッ、くそぉっ……!」
ジャン・バシュレはまだ痛む目を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
腸が煮えくりかえるとはこのことだ。あんな女にしてやられた。ずっと優位に立っていたのは自分のほうだったのに、何故こんなことになったのか。
「殺す……殺してやる……!!」
――ジャンが初めて殺人を犯したのは六歳の頃だった。理由は、同じ孤児院で暮らす少女にテストの出来が悪いことを馬鹿にされたからだった。
キッチンから持ち出した果物ナイフで、少女を刺した。泣き叫んで許しを請う姿に、どうしようもなく興奮した。
……あぁ、この俺が、人の上に立っている!
何をさせても出来が悪いと言われたジャンが、暴力なら人をねじ伏せることが出来た。生意気な女を蹂躙したのだ。既に息絶えた体に、ジャンはしばしナイフを振り下ろし続けた。
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