黒と赤




 ジャンはメモとペンを持っていたものの、何を書き込む様子もなく、ただペンをくるくると指先で回していた。


 なんて不真面目な男なのだろう。非難しようしたところで、ジャンの方が先に口を開いた。


「どーするー? 


 姉さん? カミラは自分のことを呼ばれたように感じず、眉をひそめた。しかし、この部屋には自分と、この男しかいな――


「えー、どうするってぇ?」


 ひたりと、冷たいものが首筋に当てられる。


「こうするしかないでしょお」


 そして一転、熱い何かがほとばしる、感覚。続いて耐えがたい激痛。ひゅっと喉から空気が漏れたのを最後に、息が出来なくなった。全身が、硬直する。


 ゆっくりと傾く視界の端で、ジャンが口の端をつり上げた。


「――赤」


 女の声がする。蜂蜜色の髪。手は、赤く染まっている。


「あはっ、この赤! やっぱりあたしに似合うわぁ!」


 女は床に倒れたカミラの傍に跪き、小指で何かを掬うような仕草をする。その小指を唇に這わせ、嬉しそうに言った。


「ねぇ、おばさん。綺麗な赤でしょ?」


 赤い――血の紅をつけて、女は笑っている。


 体の感覚が徐々に失われていく中、カミラはボンヤリとその悪魔を見上げていた。


 じきに、自分は死ぬだろう。


 ジャンやこの女が何者なのかは知るよしもない。しかし、今こうなっているということは、彼らにとってカミラがあの夜見た光景は暴かれたくない真実だったのだ。


 誰か。他の誰かに、伝えておけば良かった。


 ――あぁ、エマ……


 カミラが最期に想ったのは、赤ん坊の頃から成長を見守った少女の姿だった。


 セピアの瞳から光が、消えた。


「……にしても、スカーレット姉さん。そのキャラ、そーとー趣味悪いぜ」

「ちょっとぉ、今はイェニーって呼んでくれない? 誰も聞いてないとはいえ、そういうの大事なのよ。……んー、でも、ちょっとこのキャラにも飽きてきたなぁ」


 スカーレット――と呼ばれた女が蜂蜜色のウィッグを取り払うと、見事な長い髪がふわりと彼女の肩を覆った。星のない夜を思わせる漆黒の髪。毛先は角度を付けて切り揃えられている。まるで、美しい凶器のように。


「そんなに赤が好きなら、髪も染めればいーのに。俺みたくさ」

「……わたくしが好むのは、そのような下品な赤ではありませんの」


 女の声から、先ほどまでの甘ったるい響きは消えていた。金属のように冷ややかな声質。吐息を漏らすかのような語尾は僅かに掠れていて、独特の色気を醸し出している。


「それに、黒と赤の対比も美しいでしょう?」


 スカーレットは再びカミラの血を掬うと、今度は左手の爪に塗り始めた。凶器のナイフを持っていた右手は、既に真っ赤に染まっている。


「おーい、あんま死体をいじくらないでくれよ。検死の改ざんも面倒なんだぜー?」

「それくらい何とかなさいな、愚弟。女ひとりもまともに誘えない癖に、わたくしに指図しないでちょうだい」

「なんだと?! ……ん? ぐていって何だ?」

「お父様に指示されたのでしょう。エマ・ブラントを探れと。そしてにべもなく断られ、その腹いせに彼女を口撃している……はぁ、溜息が出るほど格好悪い……ダサい……」

「…………」


 ジャンは口元を引きつらせ、青筋を立てた。


「だけど、結果的には彼女は合格した。テストはそれだけではなかったけれど……何よりも、貞操観念が高い女がお好きですもの、お父様は」

「はっ、姉さんとは正反対……ヒイッ」


 スカーレットは、血に塗れたナイフ――カミラの命を奪った凶器を、空気を裂くような素早さで投げた。ナイフはジャンが座っていたソファに深々と突き刺さる。あと数センチずれていたら、彼の心臓を仕留めていただろう。


「お黙りなさいな、愚物」


 大量の冷や汗をかく義弟の顔を一瞥し、スカーレットは髪をかきあげた。濡れ羽色の髪に血が付着する。そう、この色。いつか髪までも、本物の血で染めることが夢だった。


「さて、そろそろ仕上げの頃合いかしらね」


 夜が更ける。


 リンベルクの町を覆う闇は、真実までも包み隠そうとしていた。

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