一本の電話




「実は、もしあなたがあまりに塞ぎ込んでいたら、一度孤児院に戻ってきなさいと言うつもりだったの。暫くは休むことに専念してもらって、そのあとは子どもたちと遊んだり、勉強を教えたり……住み込みの働き手として雇うことも考えていたのよ」

「カミラさん……」

「だけど、そんな心配は必要なかったわ。しっかり自分の足で立っているのね、エマ。育ての親のひとりとして、誇りに思います」


 カミラらしい淡々とした口調。けれど、その瞳は確かな優しさに満ちていて、じんと胸が熱くなる。


「私……カミラさんや先生に育ててもらって、本当に感謝しています。孤児院にいる時は、本物の両親にさえ愛されなかった自分が、他の誰かに愛されるはずがないって思っていたんです」


 カミラも、ヨーゼフも、愛してると言葉で伝えるような人ではなかった。けれど、愛は決して言葉だけではないのだと今は感じる。


「でも、先生が私を大事にしてくれていたこと、今になってやっと分かったんです。先生がまだ生きている時は、私、先生に嫌われないよう必死になるばかりで、気付けなかった……」

「自分を責めないでいいわ、エマ。親の愛情を全て理解できる子どもなんて、きっとこの世にいないから」

「だけど、せめて最後に一言、先生にお礼を言いたかったんです。でも、もう出来ないから……カミラさんには、ちゃんと言わせて下さい」


 カミラはテーブルに置いた両手をぎゅっと握りしめ、目を細めた。


「ありがとう。だけど、さっきの話で、ひとつだけ訂正させてちょうだい」

「訂正?」

「あなたが、本物の両親に愛されなかったと言ったことよ」


 エマは不安になって、カミラを見つめ返す。


「それが……?」

「あなたのお父様が、雨の中、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて孤児院に駆け込んできた時のこと、今でも覚えているわ。これは、エマにも話したわね」

「えぇ……父は泣きながら、愛してると言っていたと」


 自然と声色が冷たくなるのを、自分でも感じる。


「何か事情があったんだってことは分かっています。でも……」

「分かってるわ。頭で理解していても、心が追いつかないのでしょう。ただ、あなたのご両親が、娘を愛していなかったと……彼らの愛を否定することだけはやめなさい。私に言えるのはここまでよ」


 カミラはそう言って立ち上がった。


「さて、そろそろお邪魔するわ。このあと少し用事があって」

「分かりました」


 一階におりて、家の前でカミラを見送ることにした。扉をあけると、沈み掛けた太陽がリンベルクの町をオレンジに染つつあるところだった。


 重そうなボストンバッグを片手で持ち、カミラは振り返る。


「エマ。もしこれからも……困ったことや辛いことがあれば、私を頼りなさい。あなたにとってクルーガー孤児院は、家ではないけれど、いつでも休みに来て良い場所なのよ」


 そう言われて、ふと、長年カミラに感じていたぎこちなさの正体に気付いた。

 親を知らない子どもたちが里親のもとで暮らしていくために、孤児院が〝家〟になってはいけない――そう、そんな一線を引いていたような印象だった。


 それでも、道に迷ったり行き場を失った時には、いつでも立ち寄って休んでいい。そういう場所なのだと、カミラは言ってくれたのだ。


「……ありがとうございます、カミラさん」

「こちらこそ。ハーブティー美味しかったわ」


 コツコツと、石畳を歩くブーツの音が遠ざかっていく。すらりと背の高い後ろ姿が見えなくなるまで、エマは育ての母の姿を見送っていた。





 ハーブティーで温まった体を、容赦なく吹き付ける風が早々に冷やしていった。バッグから出したショールを肩に掛け、再びリンベルクの町を歩き始める。


 カミラはようやく決意を固めることが出来た。


 エマ・ブラントのことが心配だった。恩師の死に打ちのめされ、生気の抜けたような生活を送っているのではないかと思っていた。それを更に追い詰めるような出来事があれば――間違いなく、あの子は崩れ落ちてしまうと。


 しかし杞憂だった。久しぶりに会った彼女の瞳は、以前とは比べものにならないほど強く輝いていた。恩師との別れを悲しんでいることは間違いない。だが、別れを受け入れ、乗り越えて、前を向いて生きようという力を感じた。


 今の彼女なら、例え真実を知っても、一時の絶望からきっとまた立ち上がれるだろう。


 カミラは黄色い電話ボックスに入ると、手帳にメモしておいた番号に掛けた。欠伸をかみ殺したような声の男が応答する。カミラは深く息を吸い、ゆっくりと言葉を発した。



「――ヨーゼフ・ファスベンダー氏が死んだ事件で、提供したい情報があります」

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