不正解
許せない、あの男。
ふと、モルス・メモリエの中のフリーダと目が合った。……目が合う? おかしい、さっきまで彼女はコルネリウスを見上げていたはずなのに、何故、
表情も違う。怒っている。……呪っている。
眠りに落ちる時のように、意識が遠のいていく。最後まで心を支配していたのは、コルネリウスの憎悪だった。ここまで激しい感情は、エマ自身のものではない。これは、おそらく――……
――――……
――
あの男から逃れたくて、フリーダは身を投げた。魂は天に昇っていくのだと信じていたのに、死後の世界は空ではなく黒い海だった。そこに漂う死者たちの魂に自我などなかったが、フリーダのように強い感情だけが意識として残るケースもあるようだった。
フリーダの感情。つまり、コルネリウスへの憎悪。フリーダは黒い海に漂いながら、ただひたすら憎悪するだけの存在となっていた。
そんな時、突然声が聞こえたのだ。――〝許せない〟と。
それは、あの男への嫌悪。フリーダと近しい感情を持つ者の声だった。生者の声を聞くなんてことは初めてだ。けれど本能で、この声の主は役に立つと感じた。
どうやったかなんて分からない。けれど、今、生者としてここに立っている。
これは天啓、神の思し召しだ。今もまだ、のうのうと生きているであろうあの男へ、復讐する機会をくださったのだ。
行こう、フレーベルの邸宅へ。悪夢のときを過ごした、あの家へ――……
「――絵画の魔術、
手首に何かが巻き付いたような感覚がして、息をのんだ。
嫌な予感に逃げようとするが、今度は足も自由がきかなくなって、見事にバランスを崩してしまった。転ぶと思って目を瞑る。けれど、体はふわりと宙に浮いた状態で制止した。
「……え」
「やってくれたね」
足が視界の隅に映り込む。顔を上げると、そこには少年が立っていた。綺麗な銀の髪と、同じ色をした長い睫毛。その下では、シアンの瞳が冷たく剣呑な光を宿している。
瞬時に恐れを抱いた。こわい、この子。
逃げたいのに手足が言う事をきかない。慌てて、この体がどうなっているのか確認した。
――銀の縄だ。ぐにゃりと歪んだ空間から銀の縄が伸びて、四肢を縛っている。でも、不思議と痛くはない。
少年がこっちに向かって歩いてきた。静かで激しい怒りを感じる。思わず顔を逸らそうとしたが、それを阻むようにグイッと顎を掴まれた。
「……さっさとエマの体から出ていけ、小娘」
ゾッとした。中にいるのが別人だということに気付いている。そして、何故か小娘と呼んだ。十二かそこらの少年が使うような言葉ではない。
そこまで考えて、気付いた。あぁ、この子――……!
「きみも、本当の姿じゃないのね」
ほとんど確信を持って発した言葉だったが、少年は冷淡に吐き捨てた。
「残念、半分不正解だ」
少年が筆を一振りすると、四肢を縛る紐が緩んだ。けれどもう、フリーダには体を動かすことが出来ない。この紐に縛られてから、どんどんと力を失っていくのを感じていたのだ。
エマと呼んでいた少女の体をゆっくり下ろすと、固い床に横たわらないよう、少年は抱きかかえてあげていた。エマよりも小柄なせいで、上半身を支えるだけで精一杯のようだ。仕返しに馬鹿にしてやりたかったが、もう喋ることが出来ない。ほんの一瞬で潰えた希望に、自分で自分を嘲笑するしかなかった。
あぁ、でも。エマという少女の顔を覗き込む、少年の目。澄みきったシアンの瞳。
それはずっと、フリーダが焦がれていた眼差しだ。心の中に憎悪以外の感情が芽生える。死んでから初めてのことだった。
生前、誰かに一度でも、こうして見つめられていれば――……
フリーダは今もまだ、人間でいられただろうに。
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