フリーダの無念




 ハイネのアトリエに立ちこめる、絵の具の匂い。いつしかすっかりその匂いにも慣れてしまって、今はひとりで暮らしている自宅よりも心が落ち着く場所となっていた。


 いつものように歓迎してくれたハイネに、エマは手土産のドーナツと、図書館で借りてきた本を渡した。『空飛ぶキリンと少年』というタイトルの児童書で、表紙に描かれた少年の絵がハイネに少し似ているから……という理由で選んだ。一瞬、明らかに幼い子ども向けの本を見て目を点にしていたハイネだったが、その説明を聞くと嬉しそうにしていた。


 上機嫌なハイネにお茶を淹れてもらい、エマは図書館であったことを説明する。

 フレーベル家で起きた事件について、全く異なる内容が書かれたふたつの新聞。フィリックスがヨーゼフとは旧知の仲であり、同じ事件を追っていたこと。


「ふむ。つまり、こういうことか」


 ハイネは例の相関図に男の似顔絵を描き足し、ヨーゼフの似顔絵と矢印で結ぶ。新たな似顔絵があまりに凶悪な顔をしていたので、エマはつい口を挟んでしまった。


「……これ、フィリックスよね? ちょっと顔が怖すぎないかしら……さすがに」

「そうかな? 僕にはこんな風に見えたんだけど」


 ハイネはとぼけてみせるが、少しばかり悪意があるのは間違いない。ただ、特徴はしっかり捉えられているのでこれ以上のダメだしは出来そうになかった。


「で、ここにフリーダって女の子を描き足したいところだけど……」


 ハイネはコツコツと、ペンでコルネリウスの似顔絵を指し示す。


「ここと、どう繋がってくるかだね」

「――えぇ。さっきも簡単に説明したけど、初版の記事にはフリーダが自ら飛び降りたと書いてあったわ」


 情報提供者であるメイドの証言はこうだ。


 フリーダは、フレーベル家に来たばかりの頃は活発で明るい少女だった。しかし、時が経つにつれ元気がなくなり、心配をしたメイドが声をかけても「何でもない」と答えてはくれない。メイドは、彼女に課せられた厳しい教育がそうさせたのだろうと思っていたそうだ。


 ある日、メイドがシーツを干していると、フリーダが隣のバルコニーの手すりの上に立っているのを見た。メイドが止める間もなく、フリーダは天を仰ぎ、両手を広げ、自らの意志で――飛んだ。


「自殺、ね……確かにこれが真実だとすれば、フレーベル家にとっては隠したい出来事だろう。引き取った孤児が自殺なんて、いくらなんでも聞こえが悪すぎるからね」

「モルス・メモリエを描くには、死者の情報が必要なのよね。今回のように、どれが正しい情報なのか分からない……って時はどうするの?」

「単純だよ。順番に当てはめて探せばいいだけさ」


 ハイネの前には、既に真っ白なカンヴァスが置かれている。


 真実は、モルス・メモリエが教えてくれるだろう。



――……



 ――そして二日後、フリーダ・フレーベルの無念は描かれた。


 どこかで、こうなるだろうと予想していた光景だった。


 幼いフリーダと、にこやかに見送る女性。そしてフリーダの手を取る、コルネリウス・フォン・フレーベル……


 微笑ましい絵だ。この絵が、モルス・メモリエでなければ。


「……初版が正しかった。自殺だ。その情報でないと、フリーダの無念を探すことが出来なかった」


 淡々としたハイネの説明は、あまりに重くエマの心にのしかかる。


「彼らの後ろにある施設は、ヴァイザー孤児院だね。歴史的建造物のような外観だと、少し前に新聞で話題になっていた」

「……フリーダは、コルネリウスに引き取られたことを、人生で最も強く後悔していたのね」


 エマはカンヴァスにそっと触れた。少し緊張したようにコルネリウスを見上げる、フリーダの固い表情。けれど胸一杯に溢れる希望は、瞳の輝きから見て取れる。


 その姿が、ヨーゼフに引き取られた日の自分に重なった。


「――フリーダ……あの家の何が、あなたをそこまで追い詰めたの?」


 メイドが危惧していた通り、厳しすぎる教育か。それとも別の原因が?


 苦しい。少女の無念を想うほど、心臓が締め付けられるかのようだ。彼女と同じ、孤児としての境遇がエマをここまで共感させるのだろうか。


 ――そしてあの男、コルネリウス。彼はエマに、フリーダが事故で死んだと言った。嘘を付いた。彼女の死を、偽った。


 許せない。どんな想いで、今も彼女の絵を飾っているのか。心から大事にしていたのだと、愛していたのだと、使用人たちに、邸宅を訪れた客人に、見せつけるかのように。

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