私らしく



 店から出てすぐヨーゼフに追い付き、その細い腕を掴んで何があったのかと尋ねた。ヨーゼフの顔は、月明かりの下でも分かる程に赤らんでいたのを覚えている。


「先生、大丈夫ですか?」

「……茶会になど……」


 フィリックスの命を助けたその手で、ヨーゼフは顔を覆った。


「行かせなければ、よかった。何も疑わんで……儂の落ち度だ」

「茶会?」


 ふと、他の傭兵たちの会話を思い出した。


 先日、フレーベル家で開かれる茶会の為に数名の傭兵が警備に駆り出された。その任務から戻ってきた傭兵たちが、来賓として訪れた少女の話で盛り上がっていたのだ。


『あれがファスベンダー薬店の孤児だなんて、未だに信じられんよなぁ。陰気で可愛げのない女だと聞いてたんだけど、なかなかの美人じゃねぇか』

『俺も始めは見間違いかと思ったぜ。フレーベルの嬢ちゃんとは幼馴染みなんだろ?』

『ふたり並んでても引けを取ってなかったよなぁ』


 恩師の家に引き取られたという孤児――エマ・ブラント。完全な男所帯であるヴォルフガング傭兵団で女の話題が出ることは珍しくなかったが、その時はいつもより仲間が色めき立っていたのが印象的だった。噂と実際の姿に乖離があったせいだろうか。


 過去の記憶と、酔ったヨーゼフの発言が重なり、フィリックスは「先生の弟子のことですか」と尋ねた。すると項垂れていたヨーゼフがぴくりと反応し、顔を上げた。その目はまだ焦点が定まっていなかったが、何とかフィリックスを捉える。


「小僧か」


 もう小僧と呼ばれる歳ではないものの、恩師にそう呼ばれることは不快ではなかった。


「殆ど飲んでいない、つもりだったが……酔っていたのか……いらんことを口にした。聞かなかったことにしてくれ……」

「無理です。何か俺に出来ることは?」

「お前を巻き込むわけにはいかん」


 強情なヨーゼフに憤りとやるせなさが押し寄せて来て、思わず声を荒らげた。


「治療費も受け取らず、こんな時に手を差し伸べさせてもくれない! 俺をどこまで恩知らずにすれば気が済むんですか!」

「…………」


 白い髭の奥で、微かに唇が震える。いつしか、その深い皺が刻まれた顔からは赤みが引いていて、青白くなっていた。


「儂に何かあったら……弟子を、守ってやってくれ……」


 零れ落ちたか細い声に、フィリックスは眉をひそめる。


「……え?」

「……あぁ、いかん……離れろ、小僧。ついて来るなよ。暫くうちを訪ねてくることも許さん」


 やせ細った腕のどこにそんな力があったのか。驚くほどに強く手を振りほどき、ヨーゼフは足早に立ち去ってしまった。呆然としたのも束の間、フィリックスは背中に突き刺さる視線を感じ、弾かれたように振り返った。


 店先に、ヨーゼフと話していたフードの男が立っていた。しかし、フィリックスが何かを言う前に男はすぐに踵を返し、路地裏へと消えてしまった――



――――……



 ――フィリックスは古傷が痛んだように左目の傷を押さえた。ヨーゼフが彼を救った痕。ふたりの繋がりを示す傷を。


「そのあとフードの男を追ったが、すぐ馬車に乗り込まれて見失った。……暫くして、エマ、お前からの通報で先生が亡くなったことを知った」

「…………」

「フードの男と先生が、何を話していたのかは分からない。ただ、先生が弟子のお前を大切に思っていたことだけは事実だ」


 ヨーゼフのモルス・メモリエ。彼の人生で一番の無念として描かれた、お茶会へと向かうエマの姿。――『エマをあの茶会に行かせるべきではなかった』というのが、その真実なのだとしたら。『守ってやってくれ』と、そう言ったのなら。


 今、エマが歩んでいる道は、師が望んだものではないのだろう。


「エマ、それでも――……」

、私は本当のことを知りたい」


 決意は揺るがなかった。歩みを止めようとは思わなかった。


 師の想いを知り、込み上げてくるものはあったが涙は流すもんかと踏ん張った。感傷に浸るのは後だ。今は、みっともなくても目の前のチャンスに縋り付け。


 知に貪欲な、私らしく。

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