知らなくていいこと
「えぇ、ちょっと気になる事があって。フリーダ・フレーベルの事故について」
「――……、……」
長い沈黙があった。いや、エマがそう感じただけで、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。やがてフィリックスはようやく重い口を開いた。
「やめておけ」
「……何故?」
「お前が知らなくていいことだからだ」
たった一言ではあったが、エマの声を一時(いつとき)奪うには十分だった。フィリックスは気まずそうに視線を逸らしている。
庭に植えられた木々の、葉擦れの音だけがこの場を支配しているかのようだ。
――知らなくていいこと。エマが初めて突きつけられた言葉は、腹落ちすることなくふわふわと行き場を失っていた。それは徐々に熱を帯び、エマを身体の内側から焚き付ける。
「分かった。せっかくのお休みに、時間を取ってくれてありがとう。だけど……」
気付けば立ち上がっていた。自分よりもずっと背の高いフィリックスを見下ろして、エマは言い放つ。
「知らなくていいことかどうかなんて、人に決められたくないわ」
フィリックスは、仕事の一環でフレーベル家について調べていたのかもしれない。仕事で得た知識を人に話すことは、当然禁じられているだろう。エマは、彼が何も話してくれないことに対して抗議したわけではない。
恩師の死の謎に繋がる道。ハイネが示し、エマが進むと決めた旅路。
他人に、この道を閉ざされたくはなかった。
――知ると、決めたのだ。
フィリックスは無言だ。エマの様子に驚いたのか、金色の目を見開いている。今度はエマが気まずさを感じる番だった。
「……気を悪くしたならごめんなさい。あなたには感謝してるわ、フィリックス。先生の死に、唯一ちゃんと向き合ってくれた人だから。いつか、ちゃんとお礼をさせて」
少し待ってみたが、やはり返事はなかった。フィリックスはエマから視線を外し、自分の足下をじっと見つめている。本当に怒らせてしまったのかもしれない。
エマは肩を落としながら立ち去ろうとした。しかしその前に、神妙な声に呼び止められる。
「――エマ」
心臓が妙な跳ね方をした。今まで堅苦しく呼び合っていた相手に名前で呼ばれるというのは、思った以上に違和感を覚えるものだ。
「……なに?」
フィリックスはまだ迷いを捨てきれないように、思い詰めた表情を浮かべていた。それでも、ひとつひとつ言葉を選んで話し始める。
「ファスベンダー先生は、お前を大切に思っていた。娘が自ら危険に飛び込んでいくことを、先生は良しとしないだろう。それでもやめないと言うなら……俺が知っていることを話そう」
エマは今言われたことを何度か頭の中で繰り返してみた。しかし情報の処理が追いつかず、思わず額に手を当てる。
「ちょっと待って……フィリックス、あなた先生と知り合いだったの?」
「子どもの頃に命を救われた」
ふと、フィリックスは懐かしげに目を細めた。初めて見る、彼の柔らかな表情だった。
「俺がセメル人だということは知っているか?」
「えぇ、金色の目はセメル人の特徴だもの。それが?」
「今は条例のお陰で幾分マシにはなったが、昔はセメル人への差別が横行していた。傭兵として戦場に出向いて負傷しても、セメル人だから治療しないなんてザラだった」
「…………」
セメル人とは、大昔に南方の小国を構成していた氏族の内のひとつで、身体能力の高さと金色の目が特徴だ。とある宗教国を治める教祖が『金の瞳は災厄を呼ぶ。セメル人は悪魔の生まれ変わりだ』と宣ったことが差別の始まりだった――と、本で読んだことがある。
「でも、先生はあなたの目の色なんて気にしなかったでしょう?」
エマが確信を持って尋ねると、フィリックスは頷き、過去を語り始めた。
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