第X章 影

後援者



 長い画廊の果て。


 分厚い黒のとばりで仕切られたその奥、だだっ広い空間の中心に、ぽつんと一人掛けのソファが不自然に在った。


 そこに、ひとりの少年が傲岸不遜な態度で浅く腰掛けている。不機嫌な表情を隠そうともせず、足を組み、じっと時を待っていた。


 シアンの瞳に、とつぜんが映り込む。まるで巨大な水槽に黒い絵の具をぼとりと垂らしたかのように、その影は不気味に宙をたゆたっていた。


 おぞましい光景が目の前で繰り広げられても、少年はぴくりとも反応しなかった。呼吸の気配さえ感じられないほどに、彼は動かない。その姿は、気だるげな美しさも相まって一枚の絵画を彷彿とさせた。


『いつモに増して無愛想ダな、魔術師よ』

「……」


 影は声を発した。ざらついた舌で心の臓を舐められるかのごとく、不快に響く声を。


「……お前に呼び出されたせいで、大事な予定が狂ったものでね」

後援者パトロンの呼び出シより大事な予定があるもノか』

「要件を言え」  


 少年――ハイネは、早々にこの会話を切り上げたかった。影は、そんな彼の様子を観察するかのようにしばし押し黙ったあと、ゆらりと揺らめいて話を始める。


『最近、モルス・メモリエの納品ガ滞っているよウだな。何がアった?』

「都合の良い死者が見つかっていないだけだ」


 そんなことかと、ハイネは苛立ちに溜息を吐く。しかし返ってきた一言には、底冷えするほどの怒気が含まれていた。


『嘘ダな』


 黒い影は、声とも音とも判別出来ぬ唸りを上げる。


此程このほど、お前は描イた筈だ。しかし画廊に納品さレてはいない』

「おや、そうだったかな?」

『我を欺コうなどと思うな、魔術師。貴様の全テは我が握ってイる』

「心配しなくても、ちゃんと納品はするさ。お望みの枚数分ね」


 ガタンと音を立て、ハイネはソファから立ち上がった。影に一瞥もくれず背を向け、帳に手を掛ける。しかし、続いた影の言葉が彼を引き留めた。


『死者たチが騒イでいたぞ。モルス・マーレに、妙な色が混ざっタとな』


 ここに来て初めて、銀の長い睫毛が微かに震えた。魔術師の気配の変化を悟ったか、影の声色に愉悦が入り交じる。


『生者の世界ニ、死者の聲ガ漏れテいるよウだ。実に、興味深イ……』

「……幾ら興味を持とうが、お前が生者の世界に干渉することは禁じられている筈だ」

『ハハハハハ!』


 地の底から突き上げるような嗤い声に、冷えた空気が震えた。


『貴様が言ウか、魔術師よ! こノ世に存在スる、最大ノ禁忌を犯した貴様ガ!』

「…………」


 嘲りに応えることはせず、黙したまま帳を持ち上げる。影はハイネを刺激し、その反応を観て愉しんでいる。そういう存在やつだ。これ以上、悪趣味に付き合っている暇はない。


 黒い帳がふたつの存在を遮る直前。影は言った。


『999枚目のモルス・メモリエを……心待ちにしテおるぞ。絵画ノ魔術師よ』


 帳が下りて、肌に張り付くようだった不快な空気が晴れる。


 ハイネは小さく息を吐いてから、帳で仕切られた部屋の右側に目を遣った。


 その壁には巨大な額縁が飾られている。他のモルス・メモリエと同じ黒い額縁だが、肝心の絵がない。まだ描かれていないのだ。





 モルス・メモリエ、作品ナンバー999――

 ここに描かれるのは、如何なる無念か。


 知っているのは、この世界でただひとり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る