ハイネの夢


 回想にふけっていたエマは、そこで我に返った。


 あの時のエマはとても緊張していて、そのせいかヨーゼフとの会話を事細かに覚えていなかった。けれど記憶が蘇った今、あの日の風が再び背中を押してくれている。


「教えを守りたいから、か……。それは先生のためかい?」


 ハイネの問いにエマは首を横に振り、はっきりと答えた。


「先生に誇れる自分になるためよ」


 それが、ぐちゃぐちゃに絡まっていた感情を紐解いて辿り着いた解だった。ハイネは笑みを深め、エマの決意をシアンの瞳に映しだす。


「そっか。なら、僕は君の想いに応えよう」

「ありがとう。……その、さっきは取り乱してごめんなさい」

「気にしないで。むしろ色々話してくれて嬉しかったよ」


 真綿で包むようなハイネの言葉に、エマもようやく頬を緩ませた。



――――……



 一度、情報を整理してみることになった。


 エマは、モルス・メモリエのテーマとなった『フレーベル家のお茶会』について知ることを片っ端から話し始め、ハイネはそれを大きな羊皮紙に描いていった。


 まず手を付けたのは人間関係を表す相関図。


 これは文字と矢印、そして似顔絵で作成された。例えばエマとゾフィーの似顔絵を結ぶ両矢印には、『孤児院時代からの友人』と書かれている。


「さすが画家。似顔絵、さっと描いたものでもすごく上手ね」


 エマだけ少々美化されているような気もしたが、指摘はしないことにした。


「へへ、ありがとう。エマが描いてくれた僕の似顔絵も味があって素敵だよ」

「……ハイネ!」


 顔が熱くなるのを感じながら怒ってみせるが、ハイネは「あはは」と笑うだけ。それ以上の抗議は飲み込んだが、いつかはこちらがハイネをからかってみせると誓った。


「この光景がモルス・メモリエに描き出されるってことは、ファスベンダー氏もこのフレーベル親子と面識があるんだね?」

「えぇ。私を迎えに来てくれた時、フレーベル男爵……コルネリウスさんとゾフィーが先生に挨拶をしていたわ」

「その時のファスベンダー氏の様子は? 不機嫌だったとか」

「いいえ。普通というか、先生にしては丁寧な対応だったと思う。先生、いつも無愛想な人だったから……私が言えた事ではないけれど」


 当時のことを思い出しながら、エマは続ける。


「コルネリウスさんやゾフィーはいつも通り、親しみやすい雰囲気で話していたわ。何も違和感はなかった」

「うーん。となると、この瞬間にはまだ何も起きていなかった……のかな」


 ハイネは天井を見上げて考え込みながら、ペンを指先で器用に回す。魔術で動いているという絵に描かれた時計だけが、しばし小さな音を立て続けていた。


「エマ、この人の評判ってどんな感じなの?」

「コルネリウスさん? とても良いわ。彼の悪評なんて聞いたことがないもの」

「へぇ。有名な権力者ともなれば、黒い噂のひとつやふたつはありそうなものだけど」

「コルネリウスさんは色々、慈善活動とかにも積極的で……なんていうか、悪口を言いづらい人なのだと思うわ。彼のことを悪く言えば、自分のほうが悪者になってしまいそうというか」


 エマの分析に、ハイネは「なるほど」と頷く。


「ちなみに慈善活動っていうのは?」

「孤児を引き取って、教育とかの支援をして社会に送り出しているの。ゾフィーもそのひとりで……あっ」


 そこまで言って重大なことを思い出したエマは、片手で口を覆った。


「どうしたの?」

「そう言えば私、この間コルネリウスさんからフレーベル家の子にならないかって言われたの。ごめんなさい、これを早く伝えるべきだったわ」


 くるくると、ハイネの手の上で弄ばれていたペンの動きが止まる。


「エマを、養子に……」

「えぇ。それで、今度またお茶会に呼ばれているの。ちょうど今日、招待状が届いたわ。多分、養子の話をされると思う」

「…………」

「でも、お断りするつもり。身に余る話だけれど、フレーベル家の令嬢として生きていく自分が想像出来ない。……それに私、薬師になりたいから」

「薬師に?」

「資格を取って先生の店を継ぎたいの。フレーベル家の子になれば、それも難しくなるでしょうし……」


 夢を人に語ったのは、これが初めてのことだった。


 薬師の資格取得は容易ではない。志願者は多くいるのに、試験合格者が出ない年もあるほどの難関として知られている。ジャンあたりにこの夢を知られれば、きっと大笑いされることだろう。専門の学校に通うこともせず、薬師の手伝いをしていた程度の人間がなれるわけないと。


 しかし、諦めたくなかった。元々、子どもの頃から興味を持っていた分野だし、何より町の人々に必要とされているヨーゼフの店を、このまま閉じてしまいたくない。


「そうなんだ! 凄いね。応援するよ」


 反応が怖くて少し身構えていたが、ハイネはぱっと顔を輝かせてそう言ってくれた。夢を応援されると、想像以上に勇気付けられるものだ。


「ハイネには夢とかあるの? それとも、もう画家になったから夢は叶えたのかしら」

「僕の夢かぁ。あ、人生最期の作品として、とびっきり可愛い女の子の絵を描かせてもらうことかな!」


 天使のような笑顔と共に飛び出したハイネの夢に、エマの中のハイネ像が崩れていく音がした。いや、本当は少し前から――具体的には、ジャンとの一件あたりから既に崩壊は始まっていたかもしれない。


「…………そう」

「……エマ、ちょっと怒ってる?」


 目の光が消えている自覚は、あった。


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