あの日の風



 息苦しい沈黙が、どれほど続いただろうか。やがて、ハイネが淡々とした口調でその空気を破った。


「その考えは間違っていると思うよ」

「……どうして?」

「もし、ファスベンダー氏の無念が『エマ・ブラントという孤児を引き取ったこと』であれば、孤児院でエマのことを引き取ると決心したその時が、彼のモルス・メモリエには描かれることだろう。今まで何百枚ものモルス・メモリエを生み出してきた画家として、断言するよ」

「…………」


 エマがようやく顔を上げると、そこには体ごと向きを変え、真っ直ぐにエマを見据えるハイネの姿があった。


 その眼差しに奥の奥まで見透かされている気がして、空恐ろしさを感じる。


「初めて話した時から思っていたけれど、君は論理的で賢く、頭の回転も速い子だ。けれど自分のことになると、その思考回路が途端に歪になる。……そうだな、簡単に言うと悲観的、そして自虐的に考えがちといったところかな」

「……自虐的……」

「そう。また、それが自然な考えだと思い込んでいる節がある。君は自分が、誰にも愛されることのない人間だと思ってないかい? そんなことはないよ。――決して」


 静かで、けれど確信に満ちた言葉だった。何かを返さなければと思うが、喉がぎゅっと締め付けられて声が出ない。自分が情けなかった。


「だけどエマ。君が辛いなら、ヨーゼフ・ファスベンダーの死についてこれ以上詮索するのは辞めよう。……どうする?」


 ハイネの言葉はただの問いかけだった。何かを強制する響きは一切無く、エマがどんな道を選んでも受け入れてくれそうな、穏やかな笑みを浮かべている。


 ――だからこそエマは、これ以上情けない自分でいたくなかった。


 ゆっくりと息を吸い、吐き出す。深呼吸をすることで、凍り付いていた心がようやく動き出したかのように感じた。体温が戻った両手を握りしめて口を開くと、思ったよりもスムーズに言葉を紡ぐことが出来た。


「いいえ。先生の死の真相を知るまでは、辞めないわ」

「どうしてか、聞いてもいいかな?」


 ハイネの声色は相変わらず優しげなものだったが、その瞳はじっとエマを観察しているようだ。この視線の前で、誤魔化しや嘘は通用しないだろう。


「『知らないことに出会ったら、どんなに些事でもすぐ調べるように』――それが先生の教えなの。私は、その教えを守りたい」


 その答えに辿り着くと同時、エマは孤児院を出た日のことを唐突に思い出した。



―――――……



 ――夕暮れ時。幾つかの家から灯りが零れはじめ、おいしそうな匂いが漂ってくる時間。


 エマは自分を引き取ったという老人の背中をこっそり見上げながら、少しだけ距離を取りつつ歩いていた。老人が何度かエマのほうを向くので、そんな時は目が合わないように俯いた。


『何か、言いたいことでもあるのか』


 と、老人――ヨーゼフはおもむろに尋ねた。そのような素振りは見せていないつもりだったのに何故分かったのかと驚きつつ、エマは小さな声でこう尋ねたのだ。


『どうして、私を引き取ってくださったのですか?』


 ヨーゼフは足を止めたあと、エマのほうを向き直って答えた。燃えるような夕日を背負った彼の表情は、暗くてよく見えない。


『孤児たちの中で一番、知に貪欲だったからだ』

『知に、どんよく……?』


 すぐに意味をくみ取れなかったエマに、ヨーゼフはまた前を向き、歩き始めながら続ける。


『意味が分からないなら、帰ってから調べろ。知らないことに出会ったら、どんなに些事でもすぐ調べるように。孤児院にある書物をほぼ読み尽くしたという、おまえの得意分野だろう』


 冬の終わりを感じさせる温かい風に乗って、言葉がエマに届く。そして、その風に背中を押されるようにして、いつしかエマはヨーゼフの隣を歩いていた。


 あぁ、この人は、本当に自分を選んでくれたのだ。


 誰でも良かったわけではない。エマ・ブラントを選んでくれた。


 エマにとって、それがどんなに幸せなことだったか――あの時、言葉にして伝えれば良かったと心底想う。


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