失意



 次に陥ったのは、全身の血が足先からゆっくりと凍っていくような感覚だった。


 カンヴァスの中央にいるのは間違いなく過去のエマだ。もしヨーゼフが本当に殺されたのだとしたら、犯人の顔が描かれるのではないか――などと考えていたエマは、ただただ頭が真っ白になった。


「先生が無念に思っていたのは……私に関係すること……?」

「そうみたいだね。それと、この二人のことは分かるかい?」


 そう言われて、ようやくエマは自分以外の人物も描かれていることに気付いた。


 エマの奥に二人。遠くからこちらに向かって手を振り、微笑む親子。


「コルネリウス・フォン・フレーベルと、ゾフィー・フォン・フレーベル……ゾフィーは私の友達よ。子どものころ、同じ孤児院で暮らしていたの」

「元孤児と里親、ね」


 ハイネが眉間の皺を深めて黙り込む中、エマは近くにあった椅子に腰を下ろした。全身の力が抜けてしまいそうになるのを堪えて、絵に描かれたあの日のことを振り返る。


「この日……フレーベル家のお茶会に招待してもらったの。フレーベル家はリンベルクでも屈指の名家で、本当は私のような身分の人間が招待されるような場ではないのだけど、ゾフィーの友達だからって呼んでもらって……」

「なるほど。この時のエマ、普段と全然雰囲気が違うなって思っていたけど、そういうことだったんだね」


 納得した様子のハイネに、エマは少し恥ずかしくなった。


 確かにこの時のエマは、サロンで髪をセットしてもらい、うっすらとではあるが化粧も施している。服はミントグリーンのワンピース。袖や裾に繊細なレースがあしらわれ、ウエストにはサテンのリボンがベルトのように飾り付けられている。デコルテラインがシースルーになっているデザインが、大人っぽくて気に入っていた。しかし、それが似合っているかと問われると自信はない。


 いつもは自分を着飾ることに対して興味がなく、一言で言ってしまえば地味なエマだが、この日はまるで別人だとゾフィーに驚かれた記憶がある。


「そ、その……フレーベル家に招待されたのなら、恥のないよう十分に着飾って行けって先生が言ってくれたの」

「そっか……」


 ハイネは夢を見ているように相槌を打ち、カンヴァスの中のエマを見つめた。その眼差しは、エマにはとても理解しきれない複雑な光を宿している。何かを懐かしんでいるようにも、悲しんでいるようにも、喜んでいるようにも見えた。


「ファスベンダー氏は、さぞかし鼻が高かっただろうね。娘がこんなにも素敵で立派な女性に育ったんだもの」

「……どうしてそう思うの? 先生は自慢に思うどころか、この時のことが人生で一番の無念だと感じているのよ」


 エマの声色が変わったことを感じ取ったのか、ハイネが振り返ってこちらを見る気配がする。視線を感じながらも、エマは顔を上げることが出来なかった。


「先生はあの時、いつもより沢山お小遣いをくれて……こんなに貰えないって返そうとしても、受け取ってくれなくて。だから私、せめて先生の恥にならないようにお洒落して、フレーベル家のお茶会に呼ばれてもおかしくない令嬢に見えるよう努力したわ。もちろん外見だけじゃなくて、振る舞いもテーブルマナーも言葉遣いも勉強した。だけど、私は先生の期待に応えられなかったんじゃないかしら。先生は――……」


 ダムが決壊したかのように感情と言葉が溢れる。自分をここまでコントロール出来ないのは、初めてのことだった。


「先生は、私を引き取ったことを後悔していたのかも」


 その不安は、宿主であるエマも気付かないような奥底に深く根を張っていた。


 金がかかる子どもだと思われたくなくて、贅沢をすることが怖かった。役立たずを弟子にしてしまったと思われたくなくて、必死に勉強した。


 エマの人生で唯一手を差し伸べてくれた恩師を、失望させたくなかった。


 しかし、ヨーゼフのモルス・メモリエ無念の中心にいるのは、自分自身エマだった。

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