第4章 幸せなお茶会
招待状
雨の音だ。
轟々と押し寄せてくる音の波に攫われてしまいそうな世界で、何故かその声は、はっきりとエマの耳に届いた。
『エマ、愛しているよ』
あぁ、そうだった。世界でひとりだけ、エマに愛を伝えた男がいた――……
毛布にくるまった状態で、エマは目を覚ました。時計を見ると朝の六時。もう少し眠っていたい衝動を抑えて、ベッドから抜け出す。ぼんやりとした頭を覚醒させるため洗面所へ向かい、水で清めた顔をタオルに押しあて、そのまま溜息を吐いた。
妙にリアルな夢だった。
昔、孤児院の院長であるカミラ・クルーガーが明かした、エマの過去。それを聞いた時には何も思わなかったのに、何故か今になって不快な感情が湧き上がってくる。
これから手放そうとする娘に愛を伝えるなど、それで己の罪悪感を和らげようとでもいうのだろうか。人生で唯一もらった愛の言葉は、なんと空虚なのだろう。
「……そんな言葉なら、無いほうがマシよ」
鏡の中のエマは、珍しく怒りの色を映しだしていた。
――……
「ども、エマ・ブラントさんにお手紙です。二通ありますー」
店先の掃き掃除をしていると、郵便配達員の男が手紙をひらひらとさせながら近寄ってきた。
「ありがとうございます。ご苦労様です」
箒を壁に立てかけて手紙を受け取り、差出人を確認する。一通目はフレーベル家からだ。金のレース模様があしらわれた、見るからに高価な便箋。記されているのは茶会についてだった。
開催は一週間後の午後十四時から。場所は当然フレーベル家の屋敷。以前のように庭にテーブルと椅子を並べて行うらしい。概要の他には、ゾフィーからのメッセージも添えられていた。
『エマ、こんな季節に庭でお茶会をするなんて、とっても寒そうだと思った? 紅茶が運ばれて来る前に凍えてしまうんじゃないかって。その心配はいらないわ。当日をお楽しみに!』
丸みを帯びた愛らしい文字で書かれた言葉に、エマは首を捻った。寒さの心配がいらないとは一体どういうことだろうか。
とにかくあとで返事をしないと、と頭の中で予定に組み込みつつ、もう一通の手紙に目を通し――大急ぎで支度を始めた。
――――……
ハイネはカンヴァスの前に足を組んで座り、難しい表情で何かを考え込んでいた。アトリエまで走って来たエマは、肩で息をしながら声を掛ける。
「ハイネ……早かったのね。絵の完成はまだ先だと……」
「――あぁ、エマ。いらっしゃい」
一拍遅れて反応するハイネは、疲れ切っているように見えた。顔色はいつもに増して青白く、立ち上がった拍子にふらりと倒れてしまいそうだ。
「……大丈夫? ハイネ。もしかして休んでいないの?」
「そんな場合じゃなかったからね。とにかく、心の準備が出来たらこれを見てみてほしい」
ハイネの手紙には、師のモルス・メモリエが完成したと記されていた。早くとも完成は明日以降になるという話だったが、何かの理由で、ハイネは休みもせずに描き続けたらしい。
エマはごくりと唾を飲み込み、絵が見える位置まで移動した。
モルス・メモリエ。師であるヨーゼフ・ファスベンダーが、人生でもっとも無念に思っている、その光景は――……
カンヴァスの中央で、真新しい帽子が風に飛ばされないよう手で押さえ、どこか落ち着かなさそうな表情でこちらを振り返る少女と目が合う。柔らかな色彩で表現された陽の光は見る者の肌にまで温もりを感じさせ、この絵の中の季節が春頃であることを告げていた。
数秒間、エマは思考をふわふわと漂わせたあと、自分でも意識しないうちに声を零していた。
「……私?」
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