フィリックス・アイゼン


「楽しそうね、ハイネ」

「え、そうかい?」


 ハイネが驚いたように振り返るのと、別方向から声を掛けられたのは、ほぼ同時だった。


「――エマ・ブラント。こんなところで何をしている」


 硬質な響きを持ったその声の主を、エマはよく知っている。


 ヴォルフガング傭兵団所属、フィリックス・アイゼン。傭兵らしく屈強な体つきに、彫りの深い顔立ち。鋭い眼光を放つ金色の瞳に睨まれて、平常心でいられる者は少ない。中でも左瞼から頬にかけて走る大きな傷が、彼の強面に拍車を掛けていた。


 フィリックスは、ヨーゼフ・ファスベンダーの死をエマが通報した時、一番に駆けつけた傭兵だ。その後の調査にも参加しており、エマは何度も彼と言葉を交わしている。


 エマの証言をまとめ上げ、ファスベンダー薬店の隅々を調べ、フィリックスが出した結論は『これは事故ではない可能性が高い』というものだった。しかし一介の団員である彼の主張を、団長であるハンス・ヴォルフガングはにべもなくはね除けたという。


 事件であれば、その後も調査は続く。犯人を見つけられなければ、傭兵団にとって不名誉な事態となる。ヴォルフガング子爵家の三男ということで団長の座についたものの、傲慢かつ怠惰と悪評がつきまとうハンスらしい判断であった。


 そんなわけで、エマはヴォルフガング傭兵団に対しては良く思っていないものの、フィリックス個人に対してはある程度の信頼を寄せていた。真実はどうあれ、ヨーゼフの死に対して真摯に向き合ってくれたのは彼だけだったのだ。


「あぁ、ちょっと……散歩していただけよ。いつもとは少し違う道を歩いてみようと思って」

「……そうか。このあたりは治安があまり良くない。建物が陽の光を遮っているせいで、昼間も暗い上に外灯も無いからな」


 フィリックスは眉を寄せ、古ぼけた革の手帳に何かを書き始める。彼はエマに聴取を行っている時も、ずっとペンを動かしていた。


「そうね。気を付けるわ」

「……ところで、その子は?」


 フィリックスの視線は、エマの傍らに立つハイネに向けられていた。振り返ると、ハイネはいつの間にかエマの服の端をぎゅっと掴み、フィリックスにも負けないほどに鋭い眼差しで彼を睨み付けている。


「えぇと、この子は――」

「隣町から来たんだ。前にお母さんがファスベンダー先生に薬をもらったことがあって、その時にエマお姉ちゃんと仲良くなったの。ね、エマお姉ちゃん」


 エマが答えるより先に、ハイネは堂々と嘘の説明をした。普段の彼よりも幼く感じる演技付きだ。ただ、口元は笑みを浮かべているのに目は笑っておらず、フィリックスへの警戒心を隠そうともしていない。


 そんなハイネの態度は、エマにとって意外だった。まだ彼と出会って間もないが、人当たりが良い少年だという印象を持っていたからだ。エマへの接し方からして人見知りというわけでもないだろうし、この様子は一体どういうことだろうか。


「そうか。母親はどこに?」

「買い物に出かけてるとこ。その間、エマお姉ちゃんと遊んでなさいって」


 幸いにも、フィリックスはハイネの話を疑わなかったようだ。嘘をつく理由が見当たらないからだろうか。エマは心の中でホッと胸を撫で下ろした。


 ハイネの態度に気分を害している様子もない。強面の彼のことだ、こうした他人の反応には慣れているのかもしれない――と考えて、少し切ない気持ちになった。


 人から誤解されやすいという点で、エマとフィリックスはよく似ている。

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