「違う」
「もちろん、疑われたわ。私は先生に頼まれて薬を管理していたし、たまに飲み物に混ぜて出すこともあったから」
「そっか……ファスベンダー氏は、君のことを信頼していたんだね」
信頼がなければ、命にも関わるような薬の管理を任せる筈がない。それはエマ自身もよく理解していた。だからこそ、その信頼を利用したのではないかと疑われた時には、胸が締め付けられるようだった。
「先生が亡くなった時間、私は馬車に乗っていたの。その乗車記録があったから、捕まることはなかったわ」
ただ、決定的な証拠があっても、人の噂はより刺激的なほうに転がってゆくもの。孤児が店や財産を乗っ取るために師を殺しただの、弟子が厳しい教育に耐えきれず反撃した結果だの、好き勝手にささめき合っては、人の不幸を酒のあてにするのだ。
「……傭兵団は、年老いた先生が誤って飲んでしまったんだろうって結論付けた。だけど、私は納得がいかなくて……」
「普段の彼は、そんな間違いを犯すような感じじゃなかった?」
「えぇ。間違えないよう工夫はしていたし。確かに耳は遠くなっていたみたいだけど、普段の生活にも、仕事にも支障はなかった。何より……」
エマはこの先を言ってしまうか、一瞬迷った。きっと、おかしな子だと思われてしまうだろう。けれど、まだ出会って二日しか経っていないにも関わらず、ハイネに対する心の壁が随分低くなっていたようだ。気付けば、続きを話していた。
「……あの夜、先生の死に顔を見たとき……声が聞こえた気がしたの」
「声?」
「えぇ。先生の声で――『違う』って」
「…………」
会話が途切れ、風の音が妙に大きく聞こえた。乱れた髪を適当に整えながら、エマはなんとか空白を埋めようとする。
「ただの幻聴だと思う。私もさすがに気が動転していたし……でも、どうしても忘れることが出来なくて」
反応はなかった。俯き加減の横顔からは、何も読み取れない。
「ハイネ?」
「――死者の声は、聞かない方が良い。君まで引きずられてしまう」
「え……」
いつものエマなら、どういう意味なのかをすぐに聞き返していただろう。けれど、ハイネを纏う空気はそれを拒絶していた。深く立ち入るな、と扉を閉められたかのように感じる。
けれどハイネは、ひとつだけ明確な答えをくれた。
それは、エマが聞いたあの声が幻聴などではないということだ。
「見て、もうすぐ境界だ」
ハイネはいつもの調子に戻って駆け出し、ひときわ大きな木の前で立ち止まった。
「境界?」
「ここに印があるだろう? この木が、僕の領域と外の境界」
ハイネが指し示した木の幹には、赤い絵の具で『Heine』と書かれている。
「ここを通り過ぎれば、君の町に出るよ。ついてきて」
ハイネの言うとおり、木の横を通過すると一瞬のうちに景色が変わった。昨日、ひとりで通った時には『いつの間にか変わった』という曖昧な感覚しかなかったが、今回ははっきりとその変化を感じ取ることが出来た。
「僕の絵を持っていなければ、この印に近付いてもこうはならないんだ」
ハイネはそう言って、石積みの壁をコツコツと手の甲で叩いた。そこにも、先ほどの木と同じく『Heine』の赤い文字がある。
「昨日は気付かなかったわ、その印」
「術者の僕がネタばらししているからね。でないと認識出来ないようになってる。さ、エマの家はどっち? 前まで送るよ」
大通りに向かうハイネの足取りは軽く、エマは思わずくすりと笑った。
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