墓場まで



「僕?」


 ハイネの声は完全に裏返っていた。


「ごめんなさい」


 エマは間髪を入れずに謝罪する。


「ほ、本当にごめんなさい。冷静になって見たら本当に全然、ハイネの面影なんてなくて……というか人間だとすら思えないのだけど、私からハイネがこう見えてるっていうわけじゃ決してないから……!」


 こんなに早口で喋ったことは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。エマは羞恥で顔が熱くなっていくのを感じながらも、必死に弁明した。


 ハイネはポカンとしてエマを見つめたあと、


「……く、ふふふ……あはははははっ!!」


 堰を切ったように笑い始めた。


「そ、そんなに笑わなくても……確かに酷い絵だけど」

「違う違う! そうじゃなくて……君の反応が、か、可愛くて!! あははっ」


 またこの少年は、エマを可愛いなどと表現する。深い意味のない、世辞の類いだと分かっていても、くすぐったさが消えることはなかった。


「あー、そうだ。良いこと考えた」


 まなじりに溜まった涙を拭い、ハイネはエマの描いた落書きを軽く掲げてみせる。


「……何をしてるの?」


 早くあれを捨ててしまいたい、という気持ちを抑えながら、エマは冷静を装って尋ねた。


「まぁ見てて」


 ふっ、とハイネは落書きが描かれた紙に息を吹きかける。すると紙に命が宿ったかのように、ふよふよと宙を飛んだ。辿り着いた先の壁で紙の縁が一瞬光ったかと思うと、アンティークなデザインの額縁が現れ、そこにエマ作の絵はぴたりと収まっていた。


「……?!」

「よしよし、いい感じ」


 声にならない悲鳴をあげるエマの傍らで、ハイネは満足げに飾られた絵を眺め、頷いている。


 画家のアトリエに飾られる、ド素人の落書き。こんな恥ずかしい仕打ちがあっていいのか。


「ひ、酷い……あんな絵を飾るなんて」

「どうして? 僕は気に入ったよ。墓場まで持って行きたいくらい」


 耳を疑いたくなる言葉だったが、からかうような気配は感じられず、エマはますます混乱した。ハイネの言動は、時折不可解だ。


 エマから見ると酷い絵だが、偶然にも芸術家の琴線に触れてしまったのだろう――と自分を納得させ、エマはコーヒーの残りを一気に流し込んだ。



――――……



 ハイネは、まだ明るいうちから「今日は家まで送るよ」と宣言した。昨日の失敗を繰り返さないと言わんばかりに、さっさとコートを着て準備をしてしまう。エマもさすがに二度断ることは憚られて、今回は厚意に甘えることにした。


 二人は揃ってアトリエを出た。まだ空に残る太陽が、冷えた空気を懸命に温めている。


「先生のモルス・メモリエ……まだ、どんなものか分からないわね」

「そうだね。明日ぐらいにはぼんやり見えてくるんだろうけど」


 ハイネはコートのポケットに手を突っ込みながら、道端の小石を蹴った。小石は緩やかな坂道を転がり、落ち葉の山にぶつかって動きを止める。


「エマは、ファスベンダー氏のモルス・メモリエを見るのが怖くないのかい?」

「少しね。もし本当に、先生が殺されたことが分かったらどうしようとか……」

「殺人を疑うってことは、自然な死じゃなかったんだね?」


 エマは曖昧に頷いた。エマ自身はそう感じていても、断言できるほどの証拠は揃っていないのだ。


「先生は心臓が悪くて、自分で調薬した薬を飲んでいたの。でも、あの夜は……違う薬を飲んでいたわ」

「違う薬?」

「えぇ。見た目はよく似ているけど、血圧を上げる薬。しかも、大量に摂取したみたい。先生にとっては毒のようなものよ」


 ヨーゼフはその二つの薬を取り間違えないよう、赤と黒のラベルを薬瓶に貼っていた。一番離れた保管棚に置く工夫もしていた。それなのに誤ったほうの薬を飲み、しかもその日に限って量も明らかにおかしかった。そんな偶然があるとは、エマには思えない。


 ハイネは心配そうに、エマの顔をのぞき込む。


「――君は疑われなかったのかい? エマ」

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