不器用な絵
「……観察眼に優れているのは、画家だからなのかしら」
「んっ? 何の話?」
「いいえ、何でもないわ」
エマは上機嫌で、ハイネが用意してくれた飲み物に手を伸ばした。今日は紅茶ではなく、滑らかな喉ごしのコーヒーだった。ほどよい苦さが、甘いプレッツェルによく合っている。
「絵の進捗は見ての通りだよ。まだ、何の絵なのかは僕にも掴めていなくて……多分、構図は大体こんな感じだと思うんだけど」
ハイネは小さくなったプレッツェルを咥えながら、何かを描くような素振りを見せた。すると、どこからともなく紙とペンが出現し、ハイネの手に収まる。
「えーっと、手前に何かが3つ……それと、奥に大きな……建物のような何か」
呟きながら、ハイネは紙にさらさらと図形を描いた。それだけで十分洗練された絵になってしまうのは、さすが画家といったところか。
「うーん。これだけじゃあ何とも、だよね。やっぱり、完成にはあと二日かかりそうだ」
「分かった。急がなくてもいいからね」
「……エマはこのあと、何か予定あるの?」
「全部朝のうちに済ませてきたわ」
朝早くに起きて、役所の手続きと、食材や日用品の買い出し、そして店先の掃除を全てこなした。これも、家でじっとしていると昨夜のことを思い出しそうだったからだ。おかげで、午後の予定がすっかり無くなってしまった。
「じゃあ、もう少しここでゆっくりしていきなよ」
ハイネは期待に満ちた眼差しで提案した。それは、エマにとっても有り難い誘いだった。
「ありがとう。もし絵の邪魔にならないなら、そうさせてもらえると嬉しいわ」
「僕は喋りながらでも気にせず描けるタイプでね」
プレッツェルの最後の一口を頬張ると、ハイネはすぐに筆を執り、未完成の絵と向き合った。
静かに、カンヴァスが彩られていく。絵の具を付けている様子はないのに、その筆からは様々な色が生まれていた。
「……線を描いて、色を塗っていくわけじゃないのね」
「あぁ、今回の絵はね。色彩の濃淡で質感を表現する画法なんだ」
「へぇ……」
絵なんて、いつ描いただろうかとエマは子どもの頃を回想するが、ひとつも思い出せない。物心ついた時から、絵よりも文字に惹かれる子どもだったのだ。
しかし、ハイネという画家を前にして、絵への興味が沸いた。
先ほどハイネが使っていたペンを手に取り、プレッツェルを購入したときにもらった手拭き用の紙に、こっそり落書きを始める。ハイネはエマに背を向けているので、バレることはない筈だ――と、たかをくくっていたのだが。
「……鳥?」
ふと顔を上げると、額がぶつかりそうなほどの距離でハイネがエマの手元をのぞき込んでいた。
「あっ……」
「これ、鳥かい? いや、ええと……こう見ると木にも見えるかな?」
ハイネは首を捻りながら、必死にエマが描いたものを言い当てようとしていた。決して嫌味ではなく、本気で考えてくれているようだ。その事実が、エマの胸をぐさぐさと突き刺す。
「い、いえ、その……」
エマは、暑いわけでもないのに尋常でないほど汗をかいていた。
単なる落書きだけれど、でも、せっかく描くならこの部屋にあるもので一番美しいものを描きたいと――ほんの出来心で、身の丈に合わないことを考えてしまったのだ。
「これは……ハイネを……」
そう答えてすぐ、嘘を付けば良かったと後悔する。ハイネが推測した通り、鳥か木だと答えていれば、まだ傷は浅かったのに。エマはこういう時、咄嗟に嘘をつけない自分の不器用さを呪った。
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