鴉の目



「な……なに……?」


 何か物でも落ちたのだろうか。しかし、音は断続的に続いている。エマは湯の中で自身の体を抱きしめ息を潜めていたが、この状態で何かが起きても対処出来ないことに気付いた。


 極力音を立てないよう注意を払いながら浴槽を出て、素早くネグリジェを纏う。薄い布が濡れた肌にぴたりと張り付く。普段なら不快感を覚えるだろうが、今はそんなことまで気が回らなかった。


 そっと、脱衣所からリビングをのぞき込む。人影は見当たらないが、同時に何か物が落ちているということもなかった。緊張で呼吸が乱れるのを感じながら、エマは周りを見回し――窓に、黒い影を見つけた。


「っ……!」


 思わず悲鳴を上げかけて、慌てて両手で口を押さえる。


 黒い影の正体は、大きな鴉だった。張り出しの上か何にとまっているらしく、分厚い羽をばたつかせると、窓にあたってガタガタと音をたてた。


「はぁ……びっくりした……」


 エマが思わずその場にへたり込むと、鴉は嘲笑うかのようにカァ、とひと鳴きして、夜の闇に飛び立った。心臓はまだ、胸が痛むほどに激しく脈打っている。


『女の子の一人暮らしは危険だし……』


 ゾフィーの言葉を思い出し、床に視線を落としていたエマは気付かなかった。

 隣の家の屋根に舞い戻ってきた鴉の、赤く鋭いその視線に。



――……



 翌日。焼きたてのソフトプレッツェルがたくさん入った紙袋を抱え、エマは再びハイネのアトリエを訪ねていた。


「――エマ?」


 扉を開けたハイネは、思ったよりも早い再開に驚いているようだった。


「こんにちは、ハイネ」


「やぁ。来てくれて嬉しいけど、まだ絵は完成していないんだ。悪いね」


「えぇ、分かってるわ。今日は絵を見に来たわけじゃなくて、ハイネに差し入れを持ってきただけなの」


 それを聞くと、ハイネは嬉しそうに顔を輝かせてお礼を言い、エマをアトリエの中に通してくれた。中には相変わらず油の匂いが漂っている。


 ハイネがお茶を用意してくれている間、エマはアトリエの中央に置かれたカンヴァスを眺めていた。――ヨーゼフの、モルス・メモリエだ。


 温かな色味で、ぼんやりとした光のようなものが三つ描かれている。未完成のこの絵がこれからどこへ向かうのか、エマには想像も出来なかった。


「うわぁ、色んな種類があるんだね。エマは何がいい?」


 プレッツェルの袋をのぞき込みながら、ハイネはわくわくした様子で尋ねる。


「ハイネへの差し入れなんだから、先に決めていいわよ」

「そうかい? じゃあ……このウォールナッツくるみ のを頂こうかな」


 プレッツェル専門店タンテ・アンのお店で、一番の人気商品メープルウォールナッツ味を、ハイネは皿に取りだした。エマはシナモンシュガー味を選び、二人でかぶりつく。


「うーん、香ばしくて美味しい」


 ハイネが小さな口をもぐもぐと動かす様を愛らしく感じ、エマは思わず微笑んだ。


 ――そして、ふと思う。


 幼馴染みのゾフィーでさえ、エマの表情の変化を見分けることが出来ないというのに、初対面のハイネはすぐに気付いた。確か、魔術で画廊へ連れていってもらった時のことだった。


『思った通りだ。エマの笑顔、すごく素敵だね』


 そしてまた今も、エマの微笑に気付き、ハイネは照れた様子で視線を外すのだ。

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