入浴の時間
また、彼はゾフィー以外にも数人の孤児を引き取って生活や学業の支援をし、世に送り出すという慈善活動にも力を入れている。フレーベル家のもとで成長した少年、少女は皆、社会でその能力を発揮し優秀な人材として重宝されていた。
「さっきのゾフィーの話、急で驚いただろう。けれど、私も君なら心から歓迎するよ」
エマをフレーベル家に迎え入れる話は、ゾフィーが先走ったわけではなく、コルネリウスも承知の上だったらしい。よく考えれば当然のことだが、それでもエマには信じられなかった。
自分が、フレーベル家に相応しい令嬢になれる気などとてもしない。同じ孤児院育ちでも、気品があり、皆から愛される星のもとに生まれたゾフィーとは違うのだ。
「……いや、今すぐ答えを出せというのは当然無理な話だろう。それより、また以前のようにゾフィーと三人で茶会でもしようじゃないか」
「わぁ、素敵! お父様、エマはデトマール・ケンペのバウムクーヘンが一番美味しかったって言ってたわ」
「なら、その店のパティシエを招いて、焼きたてを食べられるようにしようか」
「本当?! ねぇエマ、聞いた? また来てくれるよね……?」
「えぇ。光栄よ」
有名なパティシエを自宅に呼ぶという感覚には目眩がしたが、エマは二人の好意をありがたく思った。
フレーベル家のお茶会は、広大な敷地の中にある美しい庭園で行われる。豊かな芝生の上に豪華な装飾のテーブルと椅子が並べられ、そこへ宝石のように輝く菓子がたくさん運ばれてくるのだ。
そんな格式高い場で、コルネリウスやゾフィーはエマが緊張しないよう、気さくに優しく接してくれた。お陰で、エマは心からその時間を楽しむことが出来たのだ。
「やった! エマってば最初は来てくれたけど、それ以降は全然招待に応じてくれないんだもん。もしかして嫌だったのかなって思っちゃった」
「ごめんなさい、店の手伝いとか勉強が忙しくて……嫌だったわけじゃないわ、勿論」
「えー、ほんとかなぁ? だってエマ、お茶会の最中も基本無表情だったし」
「……あ、あのとき私、結構笑ってたつもりだったんだけど……」
「ふふっ、冗談よ! 表情に出ないだけで、楽しんでくれてたのは分かってるから大丈夫!」
焦るエマの頬を両手でふんわり包み、ゾフィーは花開くように微笑んだ。一方エマは、自分の表情筋が死んでいるのではないかといよいよ不安になっていた。
コルネリウスは二人のやり取りを微笑ましげに見守っていたが、どこからか現れた従者に耳打ちをされ、眉尻を下げる。
「すまない、そろそろ帰らなければ。エマ、準備が整ったら招待状を出すから、少し待っていてくれるかな」
「はい、楽しみにしています」
「エマ、お茶会には前みたいにお洒落してきてね! 絶対よ!」
優雅に会釈するコルネリウスと、大きく手を振るゾフィー。親子は従者を引き連れ、曲がり角へと消えて行った。
――――……
リンベルクでは、一般的にシャワーのみで身を清める文化が定着している。しかし、そんな中でヨーゼフは湯につかることに拘っていた。心と体を休めるには、全身を温める入浴が一番だと、口癖のように言っていた。
初めは慣れなかったエマも、今では師の言葉に深く同意している。
エマは瓶に詰めたメリエの花を幾つか取り出すと、湯を張ったバスタブに散らした。メリエはハーブ畑に咲いている、淡いピンク色の花だ。乾燥させて湯につけると微かに甘く、けれど爽やかな香りが浴室いっぱいに広がる。
特にエマが気に入っているのは、保湿や血行促進の効果もあるところだ。乾燥させるのが若干手間ではあるが、時間をかける価値は毎晩感じている。
エマは脱衣所で服を脱ぎ、足先からゆっくり湯船に浸かった。
冷えた体がじわりと温まってゆく。湯の中で肌に手を滑らせ、全身を包む心地よさに思わず長い息を吐いた。
胸に張り付いたメリエの花びらを取って再び遠くへやったり、湯気が立ち上る様をぼんやり見つめたり――いつものように、入浴の時間を過ごしていた時だった。
ガタンッとリビングのほうから何かの音がして、エマは全身を硬直させる。
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