モルス・マーレ



 ――これは、おぞましい術だ。


 さっき見せてもらった扉の魔術とは、まるで異なる性質の何か。目の前で繰り広げられる光景に、エマは本能で危険を嗅ぎ取った。しかし、その危険の中心にいるハイネをひとり置いて逃げることなど、出来るはずがない。


「大いなるモルス・マーレ 死の海、我が求めに応じ道を開けよ。――契約の印は、我が魂に」


  ハイネの声が反響する。それに呼応するかのように、風が強くなった。鋭く空気を裂く音が、耳を絶え間なく掠める。


 嵐の中、ハイネが筆先を滑らせると、青白く発光する絵の具がするりと伸びた。禍々しい色で満たされたカンヴァスの上でも、はっきりと線を視認できる。


 何かの図形のようだ。文字も含まれているようだが、エマには読めない。



 ――唐突に、頭がズキンと痛んだ。瞬きをする度に瞼の裏で光が弾け、目眩がする。

 誰かの泣き叫ぶ声が、遠くに聞こえる――




 ハイネの一言に、エマは我に返った。


 いつしか嵐が去り、部屋に静けさが戻っている。カンヴァスの上には魔法陣が完成していたが、あの禍々しい色と共にすうっと消えてしまった。今は、何事も無かったと欺くかのような白だけが残っている。


 小さく息を吐いて振り返ったハイネは、エマの姿を見て眉をひそめた。


「エマ? なんだか、顔色が……」

「だ……大丈夫、ちょっと驚いただけ」


 そうは言いつつ、動揺は隠せなかった。冷たくなった手をぎゅっと握りしめ、震えが落ち着くのを待つことしか出来ない。


「どうして……、……いや、ちょっと待ってて」


 ハイネは慌てて奥の部屋に消えると、すぐに毛布を抱えて戻ってきた。


「からだを温めた方が良い。お茶を入れ直すから、とりあえずこれを」

「……体調が悪いわけじゃないわ」

「でも、震えてるじゃないか」


 ハイネは有無を言わせぬ様子でエマを毛布で包み、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。そのお陰か体の震えはすぐに収まり、胸の奥を支配していた空恐ろしさも消えた。


 一体、今のは何だったのか――エマ自身にも、分からないままだ。


 未だハイネは心配しているようだったが、いつまでもこうしているわけにはいかない。暗くなる前に帰らないと、というエマの言葉に、ハイネはようやく渋々と頷いた。


「家まで送るよ、エマ」

「駄目よ」


 当たり前のように外套を羽織ろうとしたハイネを、エマはばっさりと切り捨てた。ハイネは、まさか拒絶されると思っていなかったのか、唖然としている。


「え……どうしてだい?」

「今はまだ明るいからいいけど、私の家に到着する頃には暗くなっているわ。そんな中、子どもをひとりで返すわけにはいかないじゃない」

「子ども……?」

「……あなた、自分が大人だと思ってる? 確かにしっかりしてはいると思うけど……」

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