無念を暴く
「嫌な話をさせて悪かったね。ファスベンダー氏のことも、それから……」
ハイネは言い淀んだけれど、どうやらエマの過去について言っているようだった。
エマは両親の顔を見たことがない。
母はエマが生まれると同時に命を落とし、父がエマを孤児院に連れてきたのだという。事情があって育てられないと。
雨の中、生まれたばかりのエマを抱いた父は泣いていて、「愛している」という言葉を掛けていたらしいが、それを聞いてもエマは何の感情も持つことが出来なかった。
エマは他の子どもたちよりもずっと、悲しみや苦しみに鈍感だった。だから、町の人に可哀想だの、哀れだの、可愛げがないだのと言われても、平気だった。
「大丈夫よ。それより、先生の情報はあと何が必要かしら?」
エマはハイネに、ヨーゼフについて分かることを伝えた。年齢など基本のプロフィールから、好きな食べ物、口癖。そして、死んだ日のことも――
あとは何があるだろうか、と考えを巡らせるが、ハイネは軽く手を上げてそれを制した。
「……いや、一旦これで試してみよう」
ハイネが新たなカンヴァスを用意している間、エマは緊張した面持ちで待っていた。どんな結果であれ、師が最も無念に思っていることを暴くのだ。
ヨーゼフは、あまり自分のことを話したがらない性格だった。生きていたら、きっとエマを叱るだろう。申し訳なく、そして少し切ない気持ちになった。低く嗄れた声で『エマ、時間というものを無駄にするな』と叱られることは、もう二度とないのだ。
「そうだ、言い忘れてたんだけど……モルス・メモリエの完成には二日から三日程度かかるんだ。完成したら手紙を出すから、また来てもらってもいいかな?」
「二、三日ね。分かったわ」
「一瞬で出来れば楽なんだけどさ」
ハイネはカンヴァスの位置を調整しながら、苦笑する。
「死者の記憶って、形が曖昧なんだ。なんせ記憶を留めておく器が無いものだから――時間をかけて『視る』ことによって、少しずつ絵にしていくのが僕の仕事」
「ハイネにも、視てすぐに何かが分かるわけじゃないのね」
「そう。最初はボヤーっとしてて、絵でいうと抽象画って感じかな。それが徐々に形になっていくんだよね。僕にも不思議なんだけど」
「へぇ……」
「……よし、これで準備完了」
設置されたカンヴァスは、先ほど見た『扉の絵』よりも少し大きく、画廊に並んでいたモルス・メモリエと同じサイズをしていた。
イーゼルの高さを足すと自分の背丈を越える白紙を見上げ、ハイネは軽く手首を翻し――次の瞬間には、その手に筆が握られていた。
「よし、それじゃあ始めようか。エマ、暫く僕に近寄らないでね」
ハイネはそう言うと、カンヴァスの中心に筆先をそっとあてる。すると、絵の具を付けた様子もないのにじわりと色が広がり、黒、赤、青、黄、緑――様々な模様が、カンヴァスの上を蛇のように蠢いた。やがてそれは複雑に混ざり合い、禍々しい色へと変化する。
室内だというのに、生ぬるい風が頬を撫でた。同時に、幾人もの視線を浴びたような緊張感に包まれ、どっと冷や汗が吹き出る。自然と鼓動も速まり、エマは思わず自分の胸を押さえた。
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