死者の物語

「これは? 林檎を持ってる少年の絵。タイトルは……『罪の手』?」


 大きなカンヴァスの真ん中に、ぽつんと一人佇む少年というシンプルな構図。色は全体的に暗めのものが使われており、少年が持つ林檎の鮮やかな赤だけがやけに目立っている。線はあえて描かず、色彩の濃淡で質感が表現された絵だ。


「あぁ、これね。西の大富豪、バルドメロ=ペドラサという男のものだ」

「バルドメロ=ペドラサ? あの建築家の?」

「おっと、よく知ってるね。このモルス・メモリエは彼の孫娘から依頼を受けて描いたんだ。どこかに隠された財産があるんじゃないかって、期待していたみたいでね」

「へぇ。じゃあ、そのお孫さんの希望は叶わなかったわけね。ただの林檎を持ってる絵だもの」

「そうだね。これを見せた時、依頼人にめちゃくちゃ怒鳴られたなぁ。僕、悪くないのに」


 ハイネはぶつぶつと文句を垂れながら、その時のことを思い出すかのように絵を睨み付ける。唇を僅かに尖らせるその子どもらしい表情に、エマは密かに安堵した。ハイネが大人びた言動をするたびに、何故か落ち着かない気持ちになるのだ。


「それじゃ、解説してくれる? どうして林檎を持つ絵が、彼の『無念』なの?」

「あぁ、その林檎が盗ったものだからさ。彼はスラム生まれでね。子どもの頃は、こうしなければ生きていけなかった」

「……後悔するのは分かるけど、それが人生で一番無念に思っていたことなの?」


 エマが昔読んだ本『世界の建築とその歴史』に、西の建築家バルドメロ=ペドラサは九十を超える大往生だったと書いていた。それほど長く生きていれば、もっと大きな『無念』があっても良さそうなものだ。


「さぁね。バルドメロは生前、依頼人である孫娘に一度だけ、この罪を告白したことがあるそうだ。ただ、何故そこまで気に病んでいるのかまでは聞いていないとさ」


 エマは、絵の中で俯く少年時代のバルドメロ=ペドラサを、もう一度観察した。


 粗末な服に身を包んだ彼の横顔は青白く、悲壮感に満ちた眼差しを手にした林檎に向けている。黒い瞳には涙こそ見えないものの、今にも決壊しそうな危うさがあった。何が、彼をここまで後悔させたのだろうか。


 考え込むエマの隣で、ハイネは話を続けた。


「バルドメロは後に成功を収めて大富豪になる。家族にも恵まれて、長生きもした。非の打ち所がない立派な人生だったからこそ、子どもの頃に犯した小さな罪が忘れられなかったのか、あるいは……林檎を盗ったことで、何か取り返しの付かないことになってしまったか」

「取り返しの付かないこと?」

「そう。例えば林檎の持ち主が、同じスラムに生まれ、病を患った少女で、バルドメロが林檎を奪ったすぐ後にこの世を去ってしまった……とかね」

「…………」


 バルドメロの手にある罪の重さは、林檎ひとつ分だけではないかもしれない――そんな可能性に、エマは思わず黙り込む。静かになった画廊に、ハイネの声が響いた。


「その場合、例え少女の死と林檎を盗ったことが関係していなかったとしても、バルドメロ本人がそう思い込めば、それは彼の『無念』としてモルス・メモリエになるってこと。ま、これは単なる僕の妄想だし、真に受けないでね」

「えぇ、分かってるわ。ただ何となくだけど……真実は、今の話に近いんじゃないかと思って」

「ん? そういう噂話でもあるのかい?」

「いいえ。本当に何となくそう思っただけ。解説ありがとう、ハイネ」

「……いーえ、どういたしまして」


 ハイネは何かを気にしていた素振りだったが、それだけを言って話を終わらせた。


「他にもまぁ、色々あるよ。散々夫を邪険に扱っておいて、死ぬ間際、もっと優しく接すれば良かったという言葉を残して死んだ夫人とか――」


 そう言ってハイネが指し示したのは、気弱そうな男性が微笑む絵。タイトルは『遠い記憶』。


「こっちは……そうそう。物書きを夢見ていたけれど叶わず、別の道を目指していれば良かったと後悔していた男だ」


 次に説明されたのは、大量の紙の束を描いた絵。一瞬、それが黒い紙だと錯覚するほど、びっしりと文字が敷き詰められている。自分が書いてきたものは無駄だったと嘆き、死んでいったのだろうか。


タイトルは『戻らぬ時間』――


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