*7* ささやかな箱庭

 まるで知らない暁人が怖くなって、高校に進学してからは友だちと出かけるだとか、何かと理由をつけて避けた。

 遠い大学を探して、受験をしながら荷物をまとめて、卒業後は、そそくさとひとり暮らしを始めた。


 そうだよ、あたしは、暁人から逃げ出したの。

 でもやっぱり、臆病で卑怯者の味方なんか、神様がしてくれるわけなくて。


「久しぶりですね、姉さん」


 就職活動をしているとき、街で出会ってしまったんだ。

 すらりと背が伸び、目鼻立ちもすっきりと男らしさを増した『大人』な暁人に。


「見ない間に、また綺麗になりましたね」


「……あの、暁人」


「僕がいない日々は、楽しかったですか」


「それは……」


「貴女にとって、僕はその程度の存在でしたか」


「違う! そうじゃなくて……!」


「食事の味がしないんです。昼も夜も同じで、すれ違う女性がみんな貴女に見える。僕は気が狂いそうでした。いや、嘘ですね。貴女に一目会えても、気が狂いそうです」


 一歩後ずされば、それより大きな一歩を踏み込まれる。


「……あんなに愛情を注いでおいて、僕の愛情は受け取ってくれないんですか」


 つかまれた手首が、痛い。


「……姉さん」


「暁人、だめ」


「姉さん」


「だめ、言わないで」


「すきです」


「暁人!」


「好きです、ほんとに、好きなんです……もう、弟じゃ嫌だ……」


「っ……!」


 ぶつけられる心が……痛い。


「僕のこと、ちゃんと見て」


 街の景色が、道行く人が、フェードアウトする。


「愛してるんです──星凛」


 腕いっぱいに抱きしめられる感覚は、溺れている感覚にも似ていた。

 手足をばたつかせても抜け出せない、恋情の海。


 一体、いつから。

 こんなに深くて重い感情を、暁人はいつから背負ってきたのだろう。


 早くに気づいていれば。

 少しでも肩代わりしてあげていたら。

 そうすれば、何かが変わっていたのだろうか。

 ……なんてタラレバは、無意味な妄想だ。



  *  *  *



 目を覚ますと、見慣れない部屋で、見覚えのある寝顔が間近にあった。


 鈍い頭をフル稼働させて、あぁ、そうだったと思い出す。

 モノクロ調のここは、暁人がひとり暮らしをしている部屋なんだって。


「……まったく、寝顔だけは天使みたいなんだから」


 腰に回された腕は、鬼かってくらいびくともしないんだけど。


「僕って、可愛いですか」


「起きてたんかい」


「貴女の寝顔は、天使みたいに可愛いですから」


 ぐぅ……ブーメラン。


「可愛いって言われて、ぶっちゃけ嬉しいの?」


「貴女が絆されてくれるなら、喜んで可愛くなりますよ」


「はいはいあたしが悪かった!」


「元気いっぱいですね。昨日は、手加減しすぎたかな」


「いえいえもう充分ですから、ほんっと!」


 ああ言えばこう言う。くすくすと、こんなに楽しそうな暁人は見たことがない。人生楽しそうで何より。


「朝食食べて行きますよね。その前に、シャワーを浴びますか。連れて行きましょうか」


「わかってて訊くの、意地悪じゃない?」


「失礼しました。こちらへどうぞ、お姫様」


 うん、サラッとそんな台詞を、恥ずかしげもなく……暁人みたいなイケメンだから、許されることだな。



  *  *  *



「結婚しましょう。僕が、大学を卒業したら。それまでには星凛を落としますからね」


 物静かで自己主張の少ない暁人が放ったとは思えない、爆弾発言だった。


「無理強いするつもりはありません。だから、逃げないで。絶対に星凛を傷つけないから、僕の気持ちを、ちょっとずつでも知ってほしいです」 


 爆弾発言のわりに、あたしにもしっかりと心の猶予を与えられていた。少女漫画なら満点解答だ。

 君、ほんとに初恋だよね、今度やっと20歳になる若者だよねって疑問になるくらい、受け答えが手練のそれだった。


 実は華やかな大学デビューでもかましてたり──「今も昔も、僕は星凛一筋ですよ」──って、うん、心読むのやめてね。


 知らないから、怖いのだと。だから自分のことを知ってほしいという暁人の、一途で献身的なアプローチは、あたしに頭を抱えさせた。

 あたしなんかに、暁人はもったいない。なのに暁人は、懲りずにあたしがいい、あたしじゃないと駄目なのだと言う。


 ほんと……ばかな子。こんなの、好きになるなと言うほうが無茶な話だ。

 我ながら単純だなって思うよ。

 けど、仕方ないじゃん。あたしがすべてだったと暁人が話していたように、暁人だって、あたしのかけがえのない存在になってたの。


「ねぇ、暁人」


「なんですか」


「暁人は、子供、ほしい?」


「──! ほしいです。星凛に似た、可愛い女の子がいいです」


「……ぷっ、食い気味じゃん」


「ひどい、僕はいつだって本気なのに」


「ごめんねぇ、あっくん?」


「可愛いので許します」


「ちょっ、末期だね?」


「ありがとうございます」


「褒めてないから!」


 どうでもいいことで笑い合って、昔に戻ったみたいだった。だけど、昔のような関係じゃない。


「……あの人たちのことを引き合いに出すつもりはないですが、本当はね、僕がちゃんとした家庭を築けるのか、不安もあったんです」


「暁人……」


「でも星凛を愛しく想うようになってから、貴女の笑顔が見たい、僕の手で笑わせてあげたいって、そう願う気持ちのほうが強くなった。──星凛」


「うん」


「どんなことがあっても守ります。僕に貴女を、幸せにさせてもらえますか」


「それプロポーズだって」


「もっと雰囲気のある場所がよかったですかね、海とか」


「テイク2は受け付けないぞ〜」


「え」


「アハハハッ!」


 望まれて生まれてきたわけじゃないあたしたちでも、人生に見切りをつけたりせず、こうして図太く生きてきたんだ。


「よろしくお願い、します」


 だったら、狭い箱庭でささやかな幸せを夢見るくらい、許されるよね。


「ありがとう、星凛」


 一度はすれ違ったあたしたちだけど、今はこうして、並んで歩むことができている。


「貴女だけを、愛しています」


「ん……」


 見慣れた家路で、帰り着いたらふたりで夕飯を作って、他愛ない話をして、また朝を迎える。

 そんな日常の中でそっと抱き合った時間は、たしかな変化を感じさせて。


 静かに涙を流したあたしたちのことは、アスファルトに描かれたひとつの影絵を見下ろす夕陽しか、知らない。



  *  *  *



 幸せになれると、思っていた。

 きっとこの日々が続いていくのだと、信じていた。


『星凛! 星凛ね!?』


「もしもし、先生? どうしたんですか?」


『急にごめんなさい……あのね星凛、これから言うことを、どうか落ち着いて聞いてちょうだいね。暁人が……』


「え……?」


 ──貴女を守ります。

 ──貴女を、幸せにさせてください。


 そう、約束したのに……


 ある日突然、君はいなくなったの。

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