*8* 迫りくる影

 ……どうして?


「いけないっ、こっちに来ちゃダメだ、母さん!」


 どうしてこんなことに、なっちゃったんだろう。


「オレが引きつける。母さんは行って」


「そんな、できないよ!」


「お願いだから! 早く!」


「やだジュリ、やだよぉ……!」


「守ってあげられなくて、ごめんね……」


「待ってジュリ! あたしもっ……!」


 ──コツリ、コツリ。


 回廊の奥から、靴底を打ち鳴らす音が響く。

 まるで、あたしたちを嘲笑うかのよう。

 とっさに物陰へ引っ込み、息を殺す。


 コツリ、コツリ──……


 広い広い屋敷内にあって、その足音は明確な意思を持って、ゆったりと着実に、こちらへと近づいていた。

 石造りの柱に張りついたジュリが、あたしの視界を遮るように、背にかばう。


「オレの分まで、頼んだよ……母さん」


「ジュリ……」


 本気なんだ。あたしを逃がすために、本気で自分を犠牲にするつもりなんだ。


「ごめんっ……!」


 後で必ず、助けてみせる。

 その思いだけを胸に、夢中で駆け出した。

 けれども、運命とは残酷なもので。


「──見つけました」


 闇夜に煌々と輝く猫の瞳のように、こがねの双眸があたしだけを、じっと捉えていた。



  *  *  *



 あたし専用のアラームは、とっても有能だ。

 なんたって、あたしの扱い方をよく心得ている。


「朝だよ、母さん」


「んん……あと、ごふんー……」


「今朝はフレンチトーストにしてみたんだけどな。冷めちゃってもいいの?」


「おっはようございまーすっ!」


「あははっ、おはよう」


 寝起きにやさしい、この爽やかスマイルよ。マイナスイオン半端ないな。体感温度が2、3℃下がる。

 地球温暖化の危機を救えるんじゃなかろうか。イケメンは世界を救うとは、真理なのでは。


「食事持ってくるから、着替えて待っててね」


 ちゅ、と右頬にやわらかい感触。なんともまぁ、自然なキスだった。

 どこのスパダリだよと頭を抱えたくなるが、ここで思い出してみよう。


 この子、あたしの息子である。

 頭を抱えた。



  *  *  *



 特製のプリン液に浸した生フレンチトーストは、最近特にお気に入りのメニューだ。


「ん〜! とろっとろ! 口の中で蕩けちゃう! これは魔性の味だわ……さすがジュリ!」


「はは、母さん、にこにこしながら食べてくれるよね。オレも嬉しいよ。いっぱい食べてね」


 濃厚なのにしつこすぎない甘さで、ブラックコーヒーとの相性コントラストは抜群。

 いくらでも食べられてしまう。あたしの胃袋は、とっくの昔に降伏している。


 幸せのあまり悶え、ハッと我に返る。じ……と注がれた視線の主は言わずもがな、背後に佇んだ青年のものだろう。


「あたしばっかり楽しんじゃってて、ごめんね」


「いいえ」


「ゼノも食べる?」


「私は食事を必要としません。お構いなく」


 会話終了。

 いやまぁ、そりゃ、ドールの動力源は魔力だって聞いてはいたけどさ。


 ……暁人は好きだったけどなぁ、甘い物。

 ふわふわと脳裏に浮かんだ思考を、かぶりを振って追い払う。


「そうだったね、ごめんね。あはは」


 へらりと、締まりのない笑顔を張りつける。

 言葉もなくあたしを見つめるこがねの瞳は、何を思っているんだろうか。

 いや、何も思うことなどないはずだ。昨日今日会ったばかりみたいな、あたしたちの間柄なんかじゃ。


「ねぇ、母さん」


 ぎこちない沈黙を破ったのは、ジュリだった。


「ゼノも起動したばかりだから、まだ色々と慣れてないんじゃないかな。これから一緒に過ごしていけば、会話とか、リアクションパターンも増えてくと思うよ」


「そう……かな?」


「そうそう。大事なのは、コミュニケーション。それはオレたち人間と変わらないよ」


「……そっか」


 ねっ、とはにかむ屈託のない笑顔に、正直安堵していた。

 人間とドール。主人と従者。そんなこと関係なく、ゼノという青年個人と心を通わせたい。

 ジュリも、そう思ってくれているんだって。


「と、いうことなので、はいっ! ここでオレからひとつ、提案があります!」


「あらあら、何かしら」


 ぱんっと手のひらを打ち鳴らしたジュリが、溌剌と声を上げる。

 好奇心旺盛で、隠し部屋を見つけるだとか、あっと驚かせてくれる子だ。

 新しい遊びを見つけたこどもらしい無邪気な笑顔を、今回も微笑ましい心境で見つめていたら、だよ。


「親睦会の意味も込めて、みんなで遊ぼう! もちろんゼノもね!」


「うんうん、そっかぁ、そうだねぇ……うん?」


「かくれんぼとか、鬼ごっことか、うーん迷うなぁ……そうだ! いっそのこと合体させちゃえ!」


「まさかのかくれ鬼!? あの、ジュリくん? あたしたちはよくても、ゼノがね……?」


「マスターがお望みならば、私は従います」


 ……マジで?

 予想外の急展開すぎて、何が起きてるか、ちょっとよくわからなかった。


 かくして3分後。ようやく事の次第を理解したあたしは、ジュリ、ゼノと3人で、かくれ鬼を始めることになったのである。

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