*3* マザー

 雨宿りのために駆け込んだ店は、こぢんまりとした酒場だった。

 カウンター奥の壁かけ時計を見れば、昼を過ぎた頃。天候も相まって、客足もまばらだ。


 一足先に通された最奥の席で縮こまっていると、カウンターのおじさんと話し込んでいたジュリが、マグを両手にやってくる。


「ホットミルクだよ、はい」


「ありがたやー! ……あれ、これって」


「黒胡椒を入れてもらったんだ。身体があったまるよ。騙されたと思って飲んでみて」


「……あ、飲みやすい、美味しい」


 見た目はクッキーバニラみたいなそれ。

 さすがにそこまで甘くはなかったけど、黒胡椒がミルク独特のにおいを抑えてくれていた。

 思いのほかクセもなく、身体もポカポカ温まってくる。冷え症持ちだから、ほんとありがたい。


「ジュリは、いいお嫁さんになるよ」


「えぇ? オレ男だよ? 変なの」


「うまうま」


「あー、ひげになってるよ。もーセリってば」


 調子に乗ってホットミルクを飲んでいたら、身を乗り出してきたジュリに、ハンカチで口元を拭われる。

 それから、ふたりして吹き出した。どっちがこどもなんだか。


「ジュリって、しっかり者だよねぇ」


「そう?」


「そうなの。だからご褒美、考えといて」


 身寄りもナシ、先立つ物もナシ。

 ナイナイ尽くしな上に、この世界の通貨の価値もサッパリなあたしだ。


 先代のマザーの遺産がどれだけあったかわからないけど、二人分の家計を一手に担っていることには変わりない。

 そんなジュリを甘やかしたいと思うのが、親心ってやつなのか。なーんて。


「ご褒美……オレはセリがそばにいてくれたら、それでいいよ」 


「ダメダメ、面白味がない、却下」


「聞いといて理不尽じゃない!?」


「あはははっ!」


 あたしを慕ってくれるのも、ヒナの刷り込みのようなものでしょ? 知ってるんだよ。


 ねぇ、ジュリ。

 無垢な君はきっと、あたしの身勝手な願いを、知らない。



  *  *  *



 あたしを連れて来たのなら、逆だって可能なはずだ。


 元いた世界に、帰る。


 それこそセフィロトのもとへ向かう本来の目的であることは、ジュリには伏せていた。

 ……だから、罰が当たったのだろう。


「あっ、ごめんなさい──」


 雨が止んでいる間にと、急いでいたのは認める。

 そのせいで街ゆく人に肩をぶつけてしまったことも、完全にあたしの不注意だった。


 それにしたって、まさか。

 フードが脱げた一瞬の間に、こんなことになってしまうなんて……


「マザーだ! マザーがいるぞ!」


「え……むぐっ!」


 聞き慣れない男の声がした直後、圧迫感。


「これで俺の将来は、勝ち組も同然だ!」


 わはははと響く笑いが、気持ち悪い。

 比喩じゃない。本当に吐き気を催しているんだ。

 男に飲まされた、『何か』のせいで。


「うぁ……あっ……!」


 何これ、身体の中に、なにか、いる。

 気持ち悪い、気持ち悪い……

 いやだ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!


「セリッ!!」


 あたしを呼ぶ叫び声。

 鳩尾に衝撃があって、頭が真っ白になる。

 かは、と、酸っぱいものが口から吐き出た。


「乱暴してごめん……」


 だけど崩れ落ちる身体を抱きとめる腕の仕草は、硝子細工でも扱うように、優しかった。


「ここから動いちゃダメだよ、セリ」


 レンガ造りの壁にもたれさせられながら、霞む視界で、やっと焦点を結ぶ。

 足元に転がっていたのは、ブドウの粒くらいの、緑色の玉だったろうか。


「……『色違いろたがい』のオーナメントは、マザーにとって毒でしかない。忘れたとは言わせないぞ」


 フードを脱ぎ捨て、現れた青藍の髪が、鈍色の風景に鮮烈な色彩を刻む。


「私欲に眩み、瞳だけでなく心まで濁り腐った愚か者め──その身を以て償え」


「っ、ぐぁあああっ!!」


 断末魔の叫びに、意識が覚醒する。


「ジュ、リ……何してるの、ジュリ!」


 ジュリを中心に生じた黒い霧が、意思を持ったように蠢き、男の喉笛を締め上げる。

 何が起こっているのか、理解したくなかった。


「やめてジュリ! 死んじゃう!」


「死ぬところだったのは、セリだ」


 誰かの悲鳴が聞こえる。男の絶叫に共鳴したのだ。周囲は混乱へと陥っていた。


「本来マザーの胎内で育むべきオーナメントが、何でもいいわけがない。魔力の拒絶反応は、命さえ脅かすんだ。セリは、殺されかけたんだ。それなのにこいつをかばうの」


 なんて抑揚のない声……本当にこの子が、あの優しいジュリなの……?


「死んじゃえばいいんだ、こんなやつ」


 だけどそのひと言で、あたしの中の何かが弾ける。


「──いい加減にしなさいッ!!」


 夢中だった。

 振り返ろうともしないジュリの肩を掴み──

 乾いた音が、響き渡った。


「死んでいい人なんて、どこにもいない」


 こんなにも簡単に、感情を爆発させてしまえるなんて。

 なるほど、ジュリこの子は正しく、赤ん坊だったのだ。

 なら危うくて、まっさらな幼子を、導かなければならないのは。


「それはダメだよ、ジュリ」


 瞳と瞳を合わせて、名前を呼ぶ。

 影を帯びた漆黒の夜空に、星が戻った。


「……ごめ、なさ……オレ……」


「うん……」


「ごめんなさい、かあさん……ごめんなさい……!」


「そう、いいこね……あたしこそ、ぶってごめんね」


 大丈夫、大丈夫だから。


 自分よりも大きなこどもを抱きしめて、すすり泣く背を撫でる。

 星空からこぼれる雫は、ダイヤモンドみたいにキラキラしていた。


「このガキ……おまえこそ何だ、その漆黒の瞳は! あぁ不吉だ、薄汚い異端児め!」


 強張るジュリの身体を、ぎゅうときついくらいに抱きしめる。

 それからそっと抱擁をとき、地面に座り込んだ男のもとへ踏み出す。


「エデンの民であるなら、間近でその魔力刺激を受けることによって、マザーを認識できる……つまり一目見るだけで、本能がマザーを認識する。そうですよね」


「そ、そうだ! そして赤、青、緑、金、紫……マザーは必ず、5色のうちいずれかの瞳をしている。俺たちはマザーと同じ色の瞳を持って生まれるのが、常識で、」


「そうですか。じゃあお訊きします。あたしの瞳は、どんな色をしていますか?」


「それはもちろん……はっ? な……そん、な」


 見る間に血の気を失う男。開いたままの口が、わなわなと震えている。


「ジュリの瞳のどこが不吉で、薄汚いっつーんだよ、くそがぁっ!」


 一切のためらいは要らない。

 横っ面にこぶしを叩き込まれ、べしゃりと水たまりに顔面からダイブした男には、もう構ってやる価値もない。


「ったくもう……見世物みせもんちゃいますけどぉ!?」


 どこぞの組員よろしくガンを飛ばせば、蜘蛛の子を散らすように、人だかりが消え失せる。

 遠巻きに見る視線はあれど、あたしたちに近づく人は、もう誰もいない。


「落ち着いた? ジュリ」


「……うん、オレは大丈夫」


 すん。ジュリは鼻を啜ると、まだ濡れた漆黒の瞳を伏せ、あたしがしていたようにしゃがみ込む。


「セリは、大丈夫……?」


 何のこと? って、すっとぼけられたらよかったんだけど。


「はは……キツい、ね……」


 萎んでしまった、緑色の玉だったものを前にしたら、もうダメで。


「……ごめん、ね……」


 ぽつり、ぽつりと、泣き出す空。

 ふたり気の済むまで、いつまでもいつまでも、霧雨の街に佇んでいた。



  *  *  *



「解せぬ……」


「何が?」


「同じだけ雨に打たれて、なんであたしだけこんなことに」


「余計なことは考えなくて大丈夫だから、早く寝て治そうね」


 あれから、案の定発熱した。

 これには問答無用でお屋敷へ瞬間移動させられ、当面の間の外出禁止令も発令されるという。ガッデム!


 そしてうちのジュリくんといえば、テキパキと看病をこなしてくれている。

 さすがジュリくんとしか言いようがないのだが、ここに来て困ったことが発生しまして。


「何とか夕飯も食べたことだし、はい、今日はもう休もうね。オレも疲れちゃった」


 ふわぁ、とあくびをもらすジュリくん、当然のようにあたしが温めたベッドに潜り込んで来おる。

 そして抱き枕のごとくハグされるまでが、一連のルーティンにされつつある。


「かあさん」


「うん?」


「……ありがとね、嬉しかった」


「また急に何を言い出すの、この子は」


「あはは!」


 最近、わかったことがある。


 日中はしっかり者のジュリも、睡魔が祟ると甘えたになって、すり寄ってくること。

 そのときは舌足らずな声で、かあさん、と呼んでくること。きわめつけは。


「大好きだよ。……おやすみなさい」


 無自覚に爆撃をかましてくるこの子が、どうしようもなく可愛く思えてくることだ。


「……はぁああ、もぉ〜……」


 ダメだこんなん、絆されてしまう。

 この天使を置いてけぼりだとか、悪いことは考えられなくなるよね。


「おやすみ、ジュリ」


 あぁどうやら、元の世界へ帰る道のりは、長く険しいようだ。

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