余話 



「あれだけ脅かせば、司綿さんもはっきり言うでしょ」


 世話の焼ける異父姉。

 それと、世話の焼ける旦那様。

 恋心に関しては、どうやら二人よりずっと舞彩の方が上手らしい。見ていてヤキモキさせられる。


 市役所に届け出を出してから、うーんと伸びをした。

 やるべきことをやってすっきりと。


「やっぱり普通じゃないのかな、あたし」


 司綿の優しさや人柄はとても心地いい。

 詩絵から聞かされていた憧れだけではなくて、今は舞彩も心から彼を好いている。大好き。

 けれど、詩絵を排除したいなんて思わない。


 詩絵抜きで幸せになどなれない。

 彼女がどれだけ司綿を慕っているのか、誰よりも舞彩がよく知っている。

 その司綿は詩絵から聞いていた通りの優しい人。


 彼を選んでよかったと思う。

 彼に好きになってもらえてよかったと思う。

 独り占めしてみたい気持ちもないわけじゃない。あるからこそ、詩絵が同じ思いなのだというのもわかる。


 詩絵が欠ければ舞彩は自分を許せないし、逆もまた同じこと。

 結局、どちらが欠けても満たされないのだと思う。

 生まれてから成人するまで、融けるように重なって生きてきた。無理に剥がそうとしたら痛いだけ。


 世間では普通じゃない関係でもいい。

 世の中なんて、今まで舞彩たちに何もくれなかったのだから。そんなものを気にして無理やり自分たちを変えなくたっていいのだと考えた。

 司綿も詩絵も妙なところが真面目過ぎて、あんな風に脅迫されでもしなければ進めなかっただろう。


「好きな誰かの為なら、なんだってできるんだよ。あたし」


 何でもできる詩絵をずっと見てきたけれど、詩絵も何でもできるわけじゃなかった。

 自分のことはなぁんにもできない。

 だからその分は舞彩がしよう。司綿の背中を押すくらいできる。

 ちょっと怖い顔をしてみせるくらい。



「今度は、幸せなおままごとだよ。ウタちゃんとあたしと赤ちゃんで」


 司綿は詩絵と舞彩のヒーローだから。

 きっと、叶えてくれる。

 あの夜みたいに、きっと。


「ウタちゃんの幸せなおうちを作ってあげる。ぜんぶ、あたしが、ね」



  ◆   ◇   ◆



「俺がいりゃあなぁ」


 男はぼやいて大きく肩を上下させた。

 わざとらしく溜息を吐いて。


「俺がそこにいれば、背背はいせさんを死なせたりしなかっただろうによぅ」

「見てもねえくせに大口叩くんじゃねえ」


 相手をする男も大きく息を吐いて首を振る。

 雪のちらつく堤防の辺りを見やって、もう一度深く。


「こっちも助けようと必死だったさ」

「引っ張り上げてやれんくらい飲んでたんじゃねえのか?」

「馬鹿野郎。どんだけ飲んでたって海の仕事くらいはできらぁ」


 そう言ってから、己の頬を軽くぴしゃりと叩いた。


「って、できなかったんだからな。俺もでかい口は叩けねえぜ」

「殊勝なこと言いやがる」

「……異様だったんだよ、あん時ぁ」



 頬を叩いた手で顎をさすって首を振った。

 目を閉じて当時を思い出すように、忌々しそうに口を曲げる。

 長年の仕事仲間の様子を受けて相手が怪訝な顔を浮かべた。


「なんだ、異様ってぇのは?」

「聞いてねえのか、お前」

「誰も話したがらねえんだよ」

「あぁ」


 現場にいなかった男が状況を聞いていないことを知り、納得したと頷いた。

 誰も話したがらない。無理もない。



「大暴れだったんだよ、背背さんが」

「そりゃあ這い上がろうとして――」

「離せ、離してくれ……ってな。こっちの掴む手も振り払うもんで」

「あ?」


 堤防から落ちて、海面から少し沈んだ防波ブロックに挟まった背背を引っ張り上げようと掴んだ。

 酔っぱらっていたとはいえ腕っぷしの強い船乗りが何人もいて、だが落ちた背背当人が暴れて振り払ったと言う。


「背背さんはなんか別のもんが見えてたみたいってな」

「別のもんって、なんを?」

「昔から言うだろ。過去に捨てた女が水底から迎えに来るって話みてえだって言うやつがいたもんだから」


 船乗りは豪気な気質だと思われがちだが、声が大きいせいでの印象が強い。船での連携は小声では伝わらないから地声がでかい。

 その反面で、迷信深いところもある。

 陸地の見えない海のような場所までくると、人間の営みよりずっと大きく力強いものを実感するせいかもしれない。



「惚れた男を連れにくるってやつか? んなもん」

「そういう顔だったんだよ、あの時の背背さんがな」

「……お前がそんな冗談を言えるとは知らなかったぜ、五十年の付き合いだってのに」

「冗談なら言わねえよ。死んだ人のことだぞ」


 笑い飛ばそうとした相手をぎろりと見て、やれやれと首を振る。


「挙句に、あれだ。防波ブロックに挟まった足の傷痕が……」

「なんだよ、女の手で掴まれてたってか?」

「そう見えるんだと。引き上げようとした中に女がいたか警察に聞かれた」

「……」

「いねえよ。いたとしても足なんざ掴めるはずがねえんだから」


 二人の船乗りの間に嫌な沈黙が流れる。


 たまにある。

 船底に、まるで人間の手形のように見える跡が残っていたりすることが。

 嵐に備えて船を引き上げた時に自分の船にそんなものを見つけると、次に船を出す前には必ず神社を参る。

 どこの仏さんかわからないがどっかに行ってくれと。仏なら寺の方がいいのかもしれない。とにかく気分の問題だ。



「……俺、ちぃっと買い物行ってくるわ」


 当初、助けられなかったことを非難していた男が、やや血の気が薄れた顔で言い出した。


「たまには女房に、すいーつを食わせてやるわ」

「心当たりのある色男は大変だな」

「るっせぇ」


 過去に捨てた女が水底から手を伸ばす。

 海で暮らす人間なら、想像すれば十分に怖い。どれだけガタイが良くても関係ないだろうし。

 実際に背背の死に際の狂乱を見ていれば、なおさら。



「わりい、ついでにうちの分も買ってきてくれ」

「それ、色男は大変だろ」

「まぁな」


 真面目そうな男でもどこで怨みを買っているのかわからない。

 船乗りの男は、自分がこれまでどこでも怨まれていないなどと言い切れるほどの自信はなかった。

 案外、気づかぬところで袖にした女がいたかもしれない。



 買い物を仲間に頼んで、仕事に使った道具を片付けながら夕暮れの海を眺めてみる。

 いつもと同じ。

 いつも違う海。


「背背さんにゃあ誰が見えたんだかねぇ」


 黒々とした海が夕日に照らされ、ところどころに朱色に揺れて。

 ちらつく雪の中で、なんだか幼女の顔のような、あるいは老母の顔のような形を作っては消えていく。


「何を見たんだろうなぁ……」


 冬の海は、ただ静かにちらつく雪粒を飲み込み続けた。

 ただ静かに。



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