第64話 妹は微笑む



「舞彩を助ける為と思って、僕と結婚してくれ。詩絵」

「……?」


 僕の言い分を聞いた詩絵が、少し意味を計りかねるように眉間にしわを寄せた。

 求婚は想定していたのかもしれない。しかし理由がおかしいと。

 理解できる内容とそうでない部分が混在する。


「情けないことを言っているとは思う。だけど僕は君とちゃんと夫婦になりたい」

「司綿……わかるように話してもらえませんか?」

「さんざん言っておいてなんだけど、やっぱり舞彩は詩絵と同じでいたいんだよ。君と一緒じゃないと不安で自分を保てないんだ」


 舞彩は詩絵とは違う。別の人間だと断じた。

 僕の言葉は正しいのだけれど、それもまた一面でしかない。

 当事者である舞彩はどうなのか。詩絵と一緒でなければ不安に苛まれ、同じでなければ精神に失調をきたすほど依存している。


「舞彩は僕を好きなわけじゃないんだ。君はわかっていたんじゃないかな」


 最初の夜だってそう。

 詩絵は舞彩と僕を結ぼうとしたけれど、舞彩は詩絵も一緒じゃなければ嫌だと言っていた。

 姉を気遣っての言葉かと思った僕が間違っていた。あれは舞彩の素直な望み。


 幼い頃から一緒で、同じものを食べて、同じ時間を過ごしてきた。

 詩絵と異なることは舞彩にとって耐えがたいストレスになってしまうのだと、詩絵がいなくなってから思い知らされた。

 人は誰も抱えているものが違うのだから、正しい一面だけでならせるわけがないのだと。



  ◆   ◇   ◆



「明日、面会に行ってくるから」

「うん」


 退院してすぐに詩絵への面会を申し込んだけれど、公的には僕は彼女の家族でもなければ弁護人でもない。

 世間を騒がせている事件ということもあって、許可が出るまで数日の時間が必要だと言われた。


 肉親ならもっと早く許可されるようだが舞彩は申請しないと言う。

 会いたくないわけではない。けれど、舞彩は詩絵の頼みごとを無視した形になっている。

 会って何を話せばいいのか迷ったのだと思った。


 必ず二人を助けると約束した。僕が。

 この状態で約束を果たしたなんて言えない。詩絵と話して舞彩の元に連れてくるのが僕の役目だろう。


 団地の部屋に戻り、けれど前とは違う距離感で過ごす。

 舞彩にとっては子供の頃から。僕にとっては出所してからずっと。詩絵がいるのが日常だった。

 いつも引っ付けていた布団を歩幅分くらい離して、あまり会話もできないまま。

 ご飯の時も口数は少ない。いただきますとかだけで何を話せばいいのかわからない。

 僕と舞彩の日常は変化した。



「一緒に行かなくていい?」

「いい。司綿さんだけで行ってきて」

「……わかった」


 舞彩がそう言う以上は無理強いできない。

 明日は一人で行き、詩絵の様子を見てから改めて舞彩を連れていく方がいいだろう。



 日常の変化は僕らの間だけではなく、外側にもみられる。

 マスコミらしい人も周辺を歩くが、外を警備している警官に追い払われていた。

 団地という公的土地なので、自治体の長が認める限り無用な人の出入りを制限できるという話だ。

 住んでいるのは僕たちだけではないのだから当然と言えば当然。


 なぜだかいくつかの会社などから、うちで働かないかなどという勧誘ももらう。狭い田舎町なので僕の情報など筒抜けらしい。

 刺される母を庇ったという話題性を求めてというところもあるだろうし、中には純粋に善意の社長さんなんて人もいたのかもしれない。冤罪はほぼ確定と見られる僕の境遇に同情して。


 正直、高校をギリギリ卒業しただけの何もスキルもない僕にはありがたい申し出に違いない。

 これから生きていくのにも仕事は必要なのだから。


 担当の保護司の人に相談してみたら、なんでか泣いて喜ばれた。

 善い人だと思っていた。間違いじゃなかったって。元犯罪者を相手にする仕事を続けていると、こんなことでも嬉しいものらしい。

 本来なら泣きたいのは僕の方ではないかと思うけれど、悪い気分でもなかった。



 ――大勢の人と関わる仕事は苦手なのでは?


 決めるのは僕自身と言いながらも、僕の性格を考えての助言をくれる。

 確かに、性分に合わない仕事を始めても長続きしないだろう。じゃあ何が合っているのかなんてわからないけれど。


 前の僕なら、それを言い訳にして何もしなかった。

 自分には向いていない。うまくいくとは限らない。

 だから引きこもって、何もしなかった。


 今は違う。

 やりたい仕事とかは見つけられないけれど、やるべきことは見つかった。

 責任を負う。自分ひとりでは生きられない自分の人生の責任を。




「明日、詩絵と話してくる」

「その前に、司綿さん」


 夕食後の折れたたみテーブルに舞彩がすっと差し出す。

 コピー用紙にしては光沢のない、わら半紙と呼ぶのだろうか。まるで履歴書のような罫線の書き込まれた一枚の書類。


「あたしが明日出してくるから、書いて」

「……」

「あたしと別れて、司綿さん」


 紙切れ一枚で書類上の手続き。

 右も左もわかなかったとはいえ、よくまあ出所した日の僕はこれと対になるものを怖がりもせずに書けたものだ。

 なんの責任も知らないまま。知らないから書けたのだろうけど。



「舞彩、僕は……」

「毎日ずっと他の女のことで頭がいっぱいな人を旦那さんだと思えないでしょ。普通」

「……」


 普通なら。

 ずっと普通ではない日々を過ごしてきたけれど、普通ならそうだろう。

 そういう舞彩だって、ずっと詩絵のことを考えているくせに。


「書いて、ね」


 用紙とボールペンを残して立ち上がり、食器の片付けに台所に向かう。

 六畳間のすぐ隣、無機質な流し台に向かって振り返りもせず。



「……」


 いつまでも振り返ろうとしない舞彩を、背中から抱きしめた。

 気配に気づいていたはずだけど逃げなかったから、ぎゅっと。



「ごめん、舞彩」

「……謝らないでよ」

「不安にさせてごめん」


 詩絵がいなくて、僕は上の空で。

 舞彩が不安にならないわけがない。一番年少の舞彩を不安にさせた。


「詩絵は大丈夫だから」

「……」

「それと、舞彩がさっき言ったのは間違ってる」


 言葉にしなかった僕が悪い。舞彩がそう思い込んだのは仕方がない。

 だからちゃんと伝えよう。



「確かに僕は詩絵のことを考えていた。だけど、それと同じくらい舞彩のことを考えていたんだ」

「……」

「たぶん舞彩が思っているよりずっと、僕は君が好きだ。別れるなんて言わないでほしい」


 格好悪い。情けない。

 離婚届を突きつけられておいて縋るように舞彩を抱きしめる。


「あたしは……」

「うん」

「ウタちゃんだけに、苦しい思いをさせて……」


 震えている。

 泣いているのかと思ったけれど違った。

 ものすごく力を込めて、包丁を握りしめていた。力み過ぎて震えるくらいに。



「舞彩、危ないから――」

「あたしも、やらなきゃ……ウタちゃんと同じことをすれば、また一緒に……」


 僕が思っていたよりずっと舞彩の精神は追い詰められ、不安定になっていたようだ。

 詩絵と同じことをすれば詩絵と一緒にいられる。

 だからその包丁で……誰を?


 舞彩の手で小刻みに震える包丁を目にして、僕の腹も震えた。恐怖で。



「君は……背背が海に落ちた時、どこにいた?」

「……」


 キッチン正面のステンレス板に、包丁から反射した蛍光管の光がぎらりと走る。

 青白い灯りに照らされて包丁を握りしめたまま僕に抱かれる舞彩に尋ねる。


 狂気の匂いを感じて、小暮刑事に言われたことを思い出したのだ。

 下らない与太話。一笑に付したそれを。



「背背って、なんのこと? 司綿さん」

「……何でもない」

「それより司綿さん、ウタちゃんのこと。ねえ、あたしがウタちゃんと一緒にいる為になら、なんだってしてくれるんだよね? 司綿さん」


 俯き加減だった舞彩の顔が上を向き、僕の肩に後ろ頭を乗せて僕の貌を覗き込んだ。

 色も熱もない。流し台よりも無機質な表情を浮かべて。


 大きな瞳。

 いつもなら綺麗だとしか思わないその瞳が、薄暗い灯りを反射して僕を映す。



「だったら、あたしも――」

「それをしたら詩絵に会えなくなる」

「……なんで?」


 やはり舞彩は詩絵とは別人なのだ。

 いつも詩絵に言われるままにしてきたけれど、根底にある動機は詩絵とは違う。

 詩絵に嫌われたくないから、一緒にいたいから。

 いつもなら詩絵の指示に従えばよかったのだけれど、その詩絵がいなくてどうすればいいのかわからず暴走しかけている。


 なんで?

 どうして、それをしたら詩絵と一緒にいられないのか。

 その包丁で僕を刺したらどうなるのか。詩絵と同じことをしたら同じ場所に入れるかもしれないなんて、子供じみた発想。



「詩絵は……僕を刺せなんて言わなかっただろう?」


 正直なところ、怖くてかなり膝が震えていた。

 刺された痛みは記憶に新しいし、瞬きを忘れたような舞彩の大きな瞳が僕を離さない。

 恐ろしい何かに睨まれたカエルの気分。

 詩絵に比べて幼い印象を残す舞彩だから余計に怖い。


「司綿さんを、刺さない?」

「包丁を離そう、舞彩。それは必要ないから」

「……」


 幼児期に受けた暴力のせいだ。

 僕には考えつかないけれど、舞彩にとっては暴力も問題解決の手段として選択肢になる。


「詩絵はちゃんと帰ってくる……そうだ、仲良く待っていれば帰るって。詩絵がそう言っていたじゃないか」

「……そうだった、うん」


 舞彩の手から力が抜けたのを見て、包丁の背を持ってそっと抜き取り流し台に置く。

 とりあえず詩絵が残してくれた言いつけのおかげで助かった。息が漏れる。

 いつまでこの言葉に従ってくれるのかはわからないけれど。



「背背って何のこと?」

「ああ……いや、大した話じゃないんだけど」


 とりあえず舞彩の肩を抱いたまま後ろ歩きで六畳間に。

 少しでも刃物から離れておきたい。

 まだ離婚届が置かれたままのテーブルの傍に舞彩を座らせて、舞彩の顔を正面から見た。照明の下で見れば先ほど見せた無機質な表情ではなく、いつも通りの純真な印象。


「警察が言っていたんだ。事故死した背背の現場で、説明がつかない女性らしい痕跡があったって」

「痕跡?」

「手の跡だって話」


 事故死には違いない。

 だけど説明しようのない女の手の痕跡があって、何か知らないかと聞かれた。

 そんなことを言われても知るわけがない。


 背背が堤防を歩いたのは偶然。彼の気まぐれ。

 僕だってその気まぐれで会話をしたに過ぎない。

 車で待っていた詩絵が事前に何かできたわけもなく。


「いや……舞彩が何かしたなんて、僕もどうかしているな。ずっとこの部屋で待っていたんだから」

「どうかな?」


 凶行に走りかねない舞彩の様子を見てありもしない可能性を考えただけ。

 笑い飛ばそうとした僕に向ける舞彩の笑顔には、どこにも曇りなく。



「大好きな誰かの為にならなんだってする。できちゃうんだよ、女って」

「……」

「だから、司綿さん」


 とん、と。

 机の上に広げられた用紙に指を置いて、舞彩はにっこりと笑った。

 詩絵が逮捕されてから見るのは初めての笑顔。いや、出会って以来初めて見る、舞彩の微笑み。


「今度は間違えないでね、司綿さん」


 ああ、そうか。

 好きな人の為に。舞彩の好きな人の為になら、舞彩はなんでも選択する。

 僕では歯止めにならない。

 

 ずっと違和感を覚えていた舞彩から僕への好意に説明がついて、納得してしまうのも情けない。

 とにかく出来る限り早く詩絵に帰ってきてもらわないと。

 流し台に並べられるか、物干しに吊るされるか。僕のはらわたが無事なうちに帰ってきてくれ。



  ◆   ◇   ◆

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