第59話 めくらめっぽう
マンションの暗証番号と部屋番号を聞いて飛び出してきた。舞彩の自転車で。
ドアを叩いた時に何があったのか僕にはわからない。
中を見れば状況はわかる。
髪を引っ張られて泣いている血まみれの女と、刃物を手にした詩絵。
僕に向けて平然とした顔で少し待ってなどと言うものだから、息を呑んでしまった。
もう少しでごはんの支度が出来るから。そんな風に。
「今、これを片付けますから」
言い直した。この女ではなくてこれだと。人として扱ってしまったことを訂正した。
手にしていたゴミ袋でも見るかのように掴んだ髪の毛を見て、ふふっと笑う。
「ひぃぃっ!」
「黙りなさい」
暴れだすことを予想していたのだろう、逆手に持った刃物を突き刺す。
もがいた腕に当たり胸の辺りに刺さると、女はくぐもった悲鳴を上げて丸まった。
無防備のそこに詩絵は再びナイフを振り上げて――
「だめだ詩絵!」
もう一度振り下ろそうとしたところに飛び込んだ。
後ろのドアが完全に閉まる音は、僕の背中から脳天を貫いた激痛のせいで途切れた。
「うぐぁ、あ――っ!」
「いだい、たすけてぇ」
泣き喚く女――干溜埜埜に覆いかぶさりながら、僕も焼けるような痛みに呻く。
刃物で刺されるなんて初めてのことだ。昔、カッターナイフで手を切ってしまったことはあるが、突き立てられたわけではない。
刺された背中というより脳が激痛を全身に伝える。
ぐわんぐわんと痛みが鳴り響き、目が激しく明滅するような感覚。涙が強制的に絞り出されるように下瞼を押しのけて溢れた。
「い、たい……ぃっ」
甘く考えていた。
僕が話せば詩絵はわかってくれる、とか。
詩絵が僕を傷つけるはずがない、とか。
直感で干溜埜埜のマンションに行ったと思い、舞彩もそれを認めた。
必死で自転車を走らせて来たけれど。
どうするかを何も考えていなかった。間に合えばなんとかなると、無計画に。
「……そうですね、司綿」
「うた、え……っ」
「こうなってしまう場合も考えていました。あなたはスナックの女に入れ込み、嫉妬した私に一緒にさされた。女の方は助からない」
「ぐ……ぅ」
詩絵の方は考えていた。僕とは違ってこんな場合のことも。
僕が来る可能性も考えて、その時には僕も被害者にしてしまおうと。筋書きがある。
「痛い思いをさせてごめんなさい。その傷なら十分です」
「だめ、だ」
「どいて下さい、司綿。それがあなたに何をしたのか忘れるはずがありません」
僕の下でうずくまり、ひぃひぃと泣いている女の人。
僕と大して年齢は変わらないはずが、泣いているせいでやけに幼く感じる。詩絵や舞彩みたいに。
「……」
あの夜とは印象が違う。化粧のせいもあるのだろうけれど。
怯えているだけの弱々しい姿。
「……詩絵、やめるんだ」
「いいえ」
もう一度、詩絵がナイフを振った。
「いつっ……」
今度は背中を横に、鋭い痛みが浅く走る。
詩絵に僕を殺すつもりはない。警察に被害者と見做されるように傷をつけている。
それでも痛いものは痛い。
痛みは恐怖も産む。淡々と僕に向けて刃物を振るう相手が怖くないわけがない。
最初の一撃がかなり深かった。
脳髄を掻きまわす苦痛のせいで筋が痙攣してまともに動かない。心も委縮してしまって反撃できない。
女の子相手にこれでは情けない。
舞彩に格好をつけてきたというのにこの有様。
「頼むから……詩絵、やめてくれ」
「いまさら無理です。わかりますよね?」
格好悪く、情けなく訴えてみるが、詩絵の目は冷めたまま。
もう戻れない。戻るつもりなんてないと言う。
「ここでやめてしまったら、何もかも無駄になってしまいます。わかりますよね」
「いやぁ……ごめ、ごべん……ゆるして……」
震えながら謝罪の言葉をぶつぶつ口にする埜埜。
今はこんな様子だけれど、助かればすぐに詩絵を糾弾するのだろう。被害者の顔をして、僕と詩絵を。
殺してしまった方がいいんじゃないか。
死んだ方が得じゃないか。
そんな考えも浮かんでくる。だけど。
「司綿、私は不満ですよ」
冷え切った溜め息の中に熱がこもる。
「あなたが舞彩ではないその女に触れている。あなたの優しさをそんな女に」
舞彩ではない、干溜埜埜を庇う僕。
詩絵には面白くないだろう。展開を予測していたとしても、実際に目にすれば気に入らない。
「あなたがそれを助ける理由なんてありません」
「ある……あるんだよ」
痛みで顔を歪めながら絞り出す。
背中から血があふれ出していく。自分の体から熱が抜け落ちていくよう。
「君の、お母さんだ」
損とか得とかじゃなくて。
僕の目から流れた涙が埜埜の頬に落ちた。
「彼女は、君のお母さんだ。詩絵」
「……司綿、前にも言いましたがそれを」
「なんて言おうが君のお母さんだ! だから憎んでいるんじゃないか!」
他の誰かじゃない。
本当の母親で、そうでなければ殺そうとしたりしなかった。
これは、不器用な詩絵の――
「お母さんに甘えたかった……君は」
「……」
「憧れていたんだ、お母さんに」
どくどくと血が流れていくのを感じていたら、なんだか頭が冷めてきた。視界がぼんやりと白くなってきて。
ひどく冷える。
「……なんです?」
「君はお母さんがほしかったんだ、詩絵」
僕の口から勝手に漏れてくる言葉。
痛みで頭が
「そんな女に私が憧れるわけがないでしょう」
「世の中の、当たり前のお母さんに……詩絵がほしかったのは、それだろ」
「だとしても」
僕の言葉を断ち切るように、きっぱりと首を振る。
「それを殺さない理由になりません」
「僕は詩絵を助けに……君を助けに来たんだ」
埜埜を庇うように抱きながら顔を上げて訴える。
僕が助けたいのは埜埜ではない。詩絵だと。
「この人を殺したら、君は……君が望むお母さんになれない、から……」
「私が?」
「詩絵が幸せになる未来が、なくなっちゃうんだ……これじゃあ」
自分でも何を言っているのかわからない。
とにかく悲しい。悔しい。
干溜埜埜の為に詩絵が幸せを失うなんて許せない。
「司綿」
詩絵が笑う。
僕の言葉を笑い飛ばす。
「全然違うんですけど……司綿らしい発想ですね」
その場しのぎの僕の言葉は的外れで、詩絵の心には届かなかったらしい。
少し笑わせただけ。
「善い人の発想……でも違います。私は幸せなんですから」
「……」
「これはただのついでです。私の幸せはもう、舞彩が叶えてくれるんですから」
「舞彩、が……?」
ええ、と。うっとりと頷く詩絵の表情はまるで母親のよう。
既に目的は果たしている。舞彩がいればそれだけで済むと確信していて、僕にはどうしようもないのか。
「私の代わりに舞彩が幸せになる。それで私は幸せ。子供の幸せを願わなかったそこの生き物とはまるで違う」
「……」
「舞彩が私の全てです。私は舞彩の為になら――」
「詩絵」
寒いのは血が流れたせいか、一月の気温のせいか。
背中はとても寒く感じるのに、頭には火傷しそうなほどの熱が昇った。
「詩絵」
立ち上がり、彼女の名前を呼んで迫った。
僕はきっと怖い顔をしていたのだろう。
埜埜から離れた僕を見上げた詩絵は、たじろぐように半歩後ろに下がる。
「つか……近寄らないで下さい司綿」
「詩絵」
マンションの廊下で、奥の扉を背に逃げ場を失う詩絵に構わず近づいた。
足が重い。マンションの床は畳よりもふかふかと揺れるようで、眩暈がする頭に気持ち悪い。
だけど、火が着いたような心がどすどすと僕の足を進める。逃げる詩絵に向かい。
「い……いやっ!」
「うたえぇ!」
退路のない詩絵がナイフを振り上げた。
僕もまた、片手を振り上げて。
ぱしん、と。
頬を打つ。
痛みに震えながらの手で、振り抜きはしない。
詩絵の頬に平手を当てたまま。
「舞彩は君の身代わりなんかじゃない」
「……」
「君がどれだけつらい境遇だったとしても、自分の不幸を怨んでいても……舞彩に八つ当たりするのは許さない」
さっきの僕の言葉は、実際に見当違いだったのだと思う。
何も考えずに、ただ埜埜との関係を見直すきっかけになればと言ってみただけの上っ面の説得。
だけど、違う。
詩絵が怨んでいたのは自分自身で、彼女が本当に復讐しようとしていたのは。
「……舞彩は、僕の大切なパートナーだ。傷つけないでくれ」
「……」
「舞彩は……舞彩は、君の代わりなんかじゃない……」
ずるりと、頬に当てていた手が落ちた。
力が入らない。詩絵の頬にべっとりと血の痕が残る。
「詩絵だって、他の誰も……」
膝から力が抜けた。
そのまま壁にもたれかかりながら、ナイフの刺さった胸を詩絵の体に預けて、意識が消えていく。
「つか、わ……つかわた、いや……」
わかってる。刺すつもりじゃなかったんだって。
虐待の記憶がある詩絵だから、迫る僕が怖くて咄嗟に押しのけようとしただけ。
君が悪いんじゃない。だから……
「いやあぁぁぁっ!」
◆ ◇ ◆
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