第48話 奮い立つ男
「最近、こっちにいるそうじゃないか。あの男」
一月十一日。火曜日。
六日の夜に死んだ
卑金にも労りの気持ちがなかったわけでもない。背背がまだ学生の頃から知っている。そんな相手が不慮の事故で死んだわけなのだから。
しかし、面倒な置き土産がそんな気持ちを吹き消してくれた。
一月七日。背背が死んだ翌日。背背の兄が、この死亡事故は業務中のことではないかと言ってきたのだ。
世間一般的に見れば明らかに勤務時間外の事故。酒を飲んで海に落ちたのを使用者責任だとか何だとか。
不定期な勤務実態を含めて卑金に非があるのではないか。そういう話をしてくる。
恩知らずが。
腹が立った。
深酒で死んだ背背の話をネタにして小銭をせびろうとしているのだろう。
見舞金はいくらか包んでやってもいいが、葬儀前の遺族からの言葉がこれでは背背も浮かばれまい。
苛立ったからと言って卑金が直接何かを言えば、それをネタに
そういう話は秘書と弁護士を通じて。
逃げ口上のように後処理を任せた。たまにこんな面倒事もあるのは仕方ないが、新年早々これでは気分が悪い。
秘書に任せた。
ムカムカする腹を堪えて背背の葬儀に顔を出した九日。
戻った卑金に秘書
――背背から余計な話を聞いたという男がまた別に。
面倒が増えた話だった。
どこまでも恩を仇で返す奴だ。この時点で背背への追悼の気持ちなど完全に霧散した。
包銭の話では、
ただ単にまた何か仕事をくれというだけだろうと推察する。
県が行う公共事業でも、特定の会社にばかり発注が偏るのは好ましくない。小さな法人にも分割して発注するから、その中に自分も混ぜてくれ。その程度の小狡い男。
報告するまででもなかっただろうが、ごたついている時だからこそ小さなことも耳に入れておく。
包銭の性格は知っている。苛立ちがさらに募ったが仕方がない。
折を見て釘を刺しておけと指示した。放っておけば増長するかもしれない。
その楽口とやらが、翌日に
次から次へと騒ぎを起こす。
県庁近くの歓楽街。昔からの知り合いも少なくない。中には気の利く人間もいる。
現場周辺で古い顔を見た。
都会のように多くの人間が出入りする場所と違い、地方都市では出入りする人間がかなり限られる。
同じ地域であれば隣近所でなくとも、誰がどこに勤務しているとか、あそこの娘は大阪の専門学校に行ったなどの情報が知れ渡っているものだ。
飲み屋街で目立つ男。警察沙汰になるような人間なら特に、隣の市だろうと顔も名前も認識されていた。
また、そういう物覚えが良いことで役に立つ者もいる。十年以上前のことも記憶していて、こうして卑金に伝えてくるような。
警察に言ったところで感謝もされないが、卑金の役に立てば実利もある。
娥孟はかつて
隠れて埜埜が、という怒りとは別に卑金の頭をかすめるもの。
――楽口と娥孟が通じている?
後ろ暗い部分も少なくない卑金だからこそ気づく。思い至る。
この小悪党ども二人はおそらく結託して、卑金に不利な情報を集めている。
間違いない。
分け前や何かで揉めて傷害沙汰になったのだろう。
娥孟は短気な男だ。過去に何度もそれで事件になっている。
別の県に引っ越したはずが戻ってきているのは、出先でまたぞろ事件でも起こして居づらくなったか。金にも困っているのかもしれない。
金があると思うところに流れてきた。
過去の関係などから埜埜のところに。
どいつもこいつも卑金の金を目当てに集まってくる。薄汚いクズどもが。
埜埜もそれに噛んでいるとしたら……
そういえば四日に訪ねた時は体調が優れないとかで満足に相手もされなかった。もし陰で卑金を裏切ろうとしているのなら、どうしたものか。
苛立ちとモヤモヤする気分を抱えて埜埜のマンションに来た。連絡もせず。
これだって卑金が買ってやったものだ。経費やらの処理をして埜埜の名義にしたが、鍵は持っている。
マンションまで来て火曜日だったことを思い出した。店を開けていたら留守だ。いなければ帰りを待てばいい。
風邪で店を休むと言っていたのだが、本当に体調不良なのかとさらに疑念が浮かぶ。
乗り込んだ先で娥孟やらと絡んでいたらと妄想も膨らんだりしたのだが。
「……」
予告なしの来訪に化粧っ気はなかったが、先日より元気な顔で卑金を迎えるといつも以上に甘やかされた。
――なんだか辛そう。背背さんのこと?
――テゾさんのせいじゃない。元気だして。
――こないだはごめんなさい。風邪ひいちゃって。
すっかり甘える女の顔で、色々と腹に溜まっていた卑金を甘やかす。
埜埜は卑金の下の名前、
他の男の影も匂いもないマンションの部屋。
色々と疑心暗鬼に陥っていた自分がバカバカしくなって、埜埜の体に甘える行為にふけった。
卑金が悪いのではないのに、誰も彼も。
そんな愚痴を聞きながら癒してくれる埜埜。妻とはまるで違う、よくできた女だ。
思った以上に疲労を感じていたらしく、不満と欲求を吐き出した後も埜埜の胸にもちゅもちゅ(注1)していた。
(※注1:具体的な意味はありません。WEB媒体用表現)
しばらくそんな時間を過ごして、埜埜が飲み物を用意して戻ったところで質問する。
「最近、こっちにいるそうじゃないか。あの男」
「あのって……娥孟のこと?」
名前を出さなかったのにすぐに返ってくる人名。
はぁと溜息をついて、ベッド横の卓に用意してきた酒とつまみを置いて座った。
「どこで聞いたんだかうちのお店に来たけど。まだいるの?」
「そんな話だ」
知っていることを隠すわけでもない埜埜の態度に、杞憂だったかと卑金も息を吐いた。
なんだか喉が渇いた。洋酒を一口飲み、つまみを口にして、続けて酒を。
「テゾさん、ペース早い?」
「このくらい何でもないわい」
「お泊りならもう一度したいから、潰れないでね」
埜埜はこういうところが上手い。
五十を過ぎても性欲が衰えない卑金だが、体力はそうはいかない。若い頃とは違う。
しかし、埜埜のように若く美しい女からもっとしたいと言われると気力が体力を底上げする。
男を立たせるという言葉があるが、埜埜は男を勃たせる手管に長けている。肉体的にも精神的にも。
卑金でさえ、家では妻に軽く扱われることも珍しくない。現代日本の家庭なら当たり前のように。
愛人という立場もあるのだろうが、埜埜は卑金の心を奮い立たせてくれる。自信を持たせてくれるというか。
計算してやっているのかといえばそうでもない。
元々から男心をくすぐる所作が秀でていたのだろう。自然に、淫らに。都会でもそう多くいるものではないだろう。
そんな女を自分が囲っているのだという事実がまた悪い気分ではない。
先ほど満足したはずの下腹に、また
最近の傾向として、実際の行為中は埜埜に甘える系のことが多いのだが。
「じゃあ風呂でわしの――」
言いかけたところで電話が鳴った。
卑金の携帯。相手は秘書の包銭から。
「……どうした?」
『楽口と話しました。強めに釘は刺しましたが、本人が勝手に娥孟にもこちらの息がかかっていると勘違いしたようです』
つまらない報告。
病院の面会時間は三時頃だっただろうに、数時間経って今更言ってくるほどの内容でもない。
『それで、娥孟の居場所がわかったので』
「あぁ」
小物の一匹くらいどうでもいいこと。ついでに報告しただけで、娥孟の所在が本来の要件だったか。
警察も追っているはず。
楽口からどんな話を聞いているのか知らないが、このまま警察に捕まるのを見過ごしていいものかどうか。
残念ながら警察の中にも物分かりが悪い人間がいるものだ。どうせ嫌疑不十分になるにしても、騒ぎが増えるのは引退間近の父の機嫌も損ねるだろう。
「痛い目に遭わせてやれ」
『どの程度、でしょうか?』
「奴の浅知恵を吐かせて、下らんことをする気がなくなるよう……いや、もういい」
下腹に滾ったものが、別の方向への攻撃性に置き換わる。
埜埜の昔の男。荒々しい肉体派のチンピラ。
わからせておこう。クズ男にも、この淫らな女にも。
「娥孟がどれだけ頑丈でも車ほどでもない。娥孟萬嗣を黙らせろ。死んでも誰も構わん」
『わかりました』
包銭は余計なことは言わない。誰が聞いているとも限らないのだから。
実際に死ぬかどうかは別として、警告にはなる。
運転手は、借金や何かで困窮している人間かもしれない。卑金が知ったことではないが適役を用意するのではないか。
「テゾさん……?」
「埜埜まぁま」
娥孟の名前を二度も口にして命じたのだ。
意味は伝わったのではないか。
やることをやったから、次はやることをやろう。
そう思って、何も身に着けていない下半身を広げて見せた。
「テゾちん、いい子でちゅよねぇ?」
◆ ◇ ◆
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