第36話 角砂糖



「やめなさい、舞彩」

「だぁって」


 ご飯の前にお風呂に入ってきた僕のところに舞彩が逃げ込んでくる。

 狭い部屋なので数歩のことだけれど。


「どうしたの?」

「んん」


 口をもごもごしながら笑顔を浮かべる舞彩と、深く溜息を吐く詩絵。

 今日の夕飯は詩絵が作ってくれた。どちらも料理の手際はよくとても美味しい。舞彩の方が少し濃い味付けか。


「はしたない」

「はぁい」

「何があったの?」


 尋ねる僕に、詩絵の視線が食卓に置かれた角砂糖の袋に向いた。

 彼女らはコーヒーなど嗜好品を飲まないのだが角砂糖を買う。昔から角砂糖で砂糖の分量を調整していたとかで慣れているらしい。

 母親である干溜ひだまり埜埜しょのはろくに手料理などせず、家に角砂糖くらいしかなかったのかもしれない。砂糖と言えばこれという認識が強いのか。



「久しぶりに食べたくなっちゃったんだもん」

「まったく」

「あぁ、なんだ」


 詩絵の後ろで角砂糖をひとかけらつまみ食いしたらしい。

 夕飯前に。


「甘いものを買うくらいのお金なら好きにして構いません」

「そういうんじゃなくて……子供の頃は毎日食べてたじゃない」

「……」


 ちらりと、詩絵が僕の顔を気にする素振りを見せた。

 埜埜から食費を渡されていたとしても、贅沢が許されるほどではなかったと想像できる。デザートなど買えなくて、角砂糖がおやつ替わり。


 僕だって別に裕福な暮らしをしていたわけではないが、そんな子供時代を過ごしてはいない。

 おやつがあるかと聞けば、冷蔵庫でも戸棚でも何かしらあって。時には生クリームの洋菓子だって買ってきてもらえた。

 詩絵は恥ずかしいと思ったのかもしれない。

 僕はただ、申し訳ないと思う。



「それくらい怒らなくてもいいんじゃない、詩絵」

「ほら、司綿さんもいいって」

「でもご飯の前はよくないかな」

「そうですよ、舞彩」


 三人で顔を合わせて、ふっと笑う。

 他愛ない会話。

 普通の家庭ならどこにでもあるだろう日常だけれど、彼女らの過ごした幼少期を不憫に思う。


 誰も信用できなくて、ただ姉妹で支え合って生きてきた。

 僕なんかのことを想い続けて。

 ほんのわずかな楽しみが角砂糖ひとつ。


「角砂糖くらい……」


 言いかけて迷う。

 刑務所の労役のお金はまだ残っているが、他に収入のない僕が彼女らに好きなものを食べてほしいなんて言えない。

 本当に情けない。



「……」

「一緒に洗濯してしまうところでしたが」


 少し柔らかくなった詩絵の声。冷蔵庫の上にいくつか重なっている光熱費の通知などの間から茶封筒を抜いて僕に渡した。

 ちゃり、と小銭の音。


「先日の港のお仕事、日払いだったんですね」

「あぁ」


 最後の片付けの時に来たバイトリーダーみたいな人から渡された茶封筒。八千円のうちいくらかが税金で引かれているんだとか。

 ズボンのポケットに突っ込んでそのままだった。


「明日、舞彩の喜びそうなものでも買ってきてあげて下さい」

「……うん、そうだね」

「姉さんはこしあんじゃないと食べれないんだよ」

「あなただってそうでしょう」


 秋基あきもとのような奴からもらった金でも買い物はできる。

 残しておくのもなんだか嫌だ。使い道としては一番良い気がした。


 今の会話からすると、彼女らは洋菓子より和菓子が好きなのだろうか。料理もだいたい和食がメインだし。

 僕の洞察力が試されている気がする。

 出所直後と違って外出を無用に恐れることもなくなった。人が多い場所が怖いのは今も変わらないけれど。



 六畳間の小さな折り畳みテーブルを三人で囲む食事。

 狭いけれど、温かい。

 そうは言っても冬なのだ。水温は冷たい。洗い物は僕がするからと立ち上がったところで着信の振動があった。詩絵の携帯端末に。


「……」


 覗くつもりではなかったが、何かしら音が鳴れば見てしまう。

 詩絵が手にする直前、誰からという表示が出る。登録している相手ならもちろん。


『埜埜』


 母親の登録名にしては簡素な二文字。

 詩絵も舞彩も表情を硬くして、ひと呼吸おいてから詩絵が耳に当てた。



「はい」

「……」

「いいえ、違います」


 淡々と、冷淡に。

 干溜埜埜からの電話に受け答えする詩絵。


「ここからだと一時間くらいです」

「……」


 呼び出しを受けている。

 近くにいるかと聞かれたのだと思う。


「……わかりました。買い物もするならもう少しかか――」


 そこで通話は途切れたらしい。

 強張った空気は、通話を終えても途切れない。



「……体調を崩したそうです。薬など買ってこいということでした」

「自分は何もしないくせに、そんなことを?」

「前からたまにあったんだよ。普段は顔を見せるなって言うのにこういう時ばっかり」


 具合が悪いから看病しろ、と。

 母親の役割をろくにしてこなかったのに娘には強要するのか。身勝手な。


「それでも珍しい……ですね。成人してからこういうことはなくて、卑金の部下などにさせていたのですが」

「そういえば」


 詩絵の言葉に舞彩も少し首を傾け、どうするのという目で姉を見た。

 世間一般なら母の具合が悪いから実家に行くというのは普通のことだけれど、彼女らは違う。



「行ってもどうせお礼も言わないのに」

「言われる方が気持ち悪いですが。ちょうどいい・・・・・・ですから行ってきます。帰りはわかりませんから先に寝ていて下さい」

「?」


 詩絵の言葉に引っかかる僕をよそに彼女は立ち上がった。

 私物が入ったダンボール箱を開けて準備を始めてしまうが、どうしたらいいのだろうか。


「僕も一緒に」

「もう夜です。エンジンを掛けっぱなしにしていられないので、車中で待つのは無理です。それこそ体を壊してしまいます」


 まさか一緒に埜埜のマンションに上がるわけにもいかない。

 一月上旬の夜。外で待つにも無理がある。



「だけど……近くのコンビニで待っていれば」

「いつ帰れるかわかりません。長時間になれば目立ってしまいます」

「……心配なんだ」


 詩絵の言うことは正しい。

 寒さくらい我慢する。一人で干溜埜埜のところに行かせたくない。舞彩に同行しろとも言えないけれど。


「司綿」


 ハンドバッグに必要なものを詰めた詩絵が振り返る。

 さっき電話をしていた時より表情は和らいでいて、静かに頷いた。


「大丈夫です」

「……」

「あなたがこうして心配して待っていてくれる。その気持ちだけで楽になりました」


 行きたいわけがない。大嫌いな、憎んでさえいる母親の看病になんて。

 だけど微笑んで息をつく。


「必要なこともあるので行きます。電話の声では実際にかなりひどい状態のようでした。私を頼るくらいですからね」

「……そう」

「司綿さん」


 後ろから舞彩が、軽く僕の背中を押した。

 詩絵の方に。

 促されて、詩絵の背中に手を回す。


「……気を付けて」

「はい……」


 少し小さくなっておでこを僕の胸にうずめる詩絵。

 彼女らはずっと、埜埜や娥孟萬嗣などの身勝手に振り回され生きてきた。相手の機嫌ひとつでどうなるかわからない恐怖は、僕の刑務所暮らしより悪かったかもしれない。

 そんな詩絵と舞彩が安心して帰れる存在になれるのなら、もちろん嬉しい。


 漠然とした不安は消えないけれど。

 詩絵を納得させられるだけの言い分を見つけられないまま彼女が出ていくのを見送った。

 あの夜と同じ。僕はどうすれば正しいのかわからない。



  ◆   ◇   ◆

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