第25話 冬の思い出_2
汚れ仕事。
直接手を汚すような仕事はさすがに少ない。
帳簿関係は背背ではなくそれらが得意な秘書がやっている。その帳簿がどう汚れているかなんて調べるつもりもない。
荒事が必要な時は、外部に依頼をする。
最近はそうした
その際にも直接そんな連中に接触などしない。
人を集めて使うことが得意な
まさか卑金議員やその秘書が暴力沙汰に関わっているなど、間違っても世間で言われないように。
市民団体、人権派、環境を考える会。そんな看板を偽装した手もある。
こちらにとって有利になるよう、資金を使って押したり引いたり。
対立する側を不利にする為、あえて反対側の主張を狂ったように力押しでアピールをさせるのも効果的だった。頭のおかしい連中の話と世間に思わせるために。
大学で心理学を専攻していた背背は、自分の撒いた種で思惑通りに人が動くのを面白く感じた。仕掛ける資金と手段のある職場は背背の天職だったのだろう。
そんな工作も、盤石な地盤を持つ卑金一族ではほとんど必要なかったけれど。
「……」
近日、冷たい海に向かうせいか。
思い出してしまった。自分が直接手を汚した
「は」
少し違う。忘れたことはない。
背背がやった仕事。冷たい水底に命を投げ出す女。
息子が逮捕されたのは秋のことだった。
心労で倒れた母親。余計なことを主張していたと。
どこかのテレビ番組で見たのだろう。息子は無実だから専門の科学捜査をしてくれだとか。
県警ではない別の機関に介入してほしいだとか、馬鹿なことを。
県警の捜査に対して別の横やりが入る可能性などほとんどあり得ない。これが全国を荒らす犯罪だったりするのでなければ。
しかし、
当時から主流になりつつあったSNSなどのツールが面倒を引き起こすかもしれない。
息子がやったと認めざるを得ないよう言い聞かせ、諦めさせる。
最初はそういうつもりで接触した。
カウンセラーという肩書に法的な資格はない。(※二〇一八年以前)
もちろん病院に勤務するのなら相応のものがあるが、名乗るだけならできる。
それらしい名札とグレーのスーツを用意して。
心理学をかじった背背が話しかけたのを、当人は病院の関係者だと思ったようだ。
病院職員に対しては警察から依頼を受けたのだと説明すると、さほど深くは聞かれなかった。当時、世間を騒がせていた事件だったので。
優しく話した。
最初は母親の言う通り、息子は無実かもしれないと肯定しながら。
話を聞いてくれる。理解してくれる。
誰も彼もが敵の状態で、彼女の主張を否定しない背背が信用を得るのはさほど時間がかからなかった。
――残念なことに……息子さんの体液が付着していたらしく。
――始角さん、お気持ちはわかります。私もあなたの息子さんを信じたい。
発表されたわけでもない不利な物証を吹き込んだ。
傷口を開き、そこからさらに胸中に入り込む。
――最近、息子さんとどんな会話をしましたか?
――彼はどんなことを考えていたか、わかりますか?
昔の優しかった記憶ではない。
ニートだったという息子の腹の内を、母親としてどれだけ知っていたと言えるのか。
――あなたがちゃんと理解してあげていたら違ったかもしれませんね。
――世間と離れた彼にとって、母親のあなたの理解が何より必要だったのかも。
私が悪い。私が悪い、と。
――相手は六歳と五歳の女の子です。たすけて、と。クレヨンで書いていたとか。
――社会もですが、彼女たちが息子さんを許せる時が来るかは難しい……いえ、正直に申し上げれば不可能かと。
実在する被害者。同じ性別の人間として、幼い時にそんな被害を受けたらどう感じるのか。
言葉にして、ゆっくりと言い含めた。
――それをやったのが息子さんです。
――あなたが償う必要はありません。やったのは息子さんですから。
気分転換に、と。
十二月の曇りの日に女を外に出した。
町は海に面していて川も流れている。
どの辺りが深いのか、流れが急なのか。事前に漁協で聞いておいたのは幸いだった。
川の流れをじっと見つめる女。
少し離れた場所でそれを見ていた。
どうするだろう。
どうするだろうか。
この女の次の行動は?
予想通り。思惑通り。
転がしたボウリング玉が見事にストライクを取ったような、最高の瞬間だった。
すっかり暗くなっていたことに気が付いたのはだいぶ経ってからだ。
女が水面を眺めていた時間は三時間以上。
その間、横を通る人間もいたのに。誰も助けようとなどしなかった。
これが人間社会なのだと知る。
面白い。面白い。こんなことなら大学時代にもっと勉強しておいてもよかった。
口先だけで人間の生死すら操れる。背背は会話しただけなのに。
後から冷静になって、その後は活動を控えた。
目立つわけにはいかない。病院で本名を出してしまったのは失敗だったかなどとも考えたが、名刺などは残していない。
状況から考えて母親の自殺は疑いようもなく、この国で自殺に対して徹底した周辺調査など行われることもない。
息子が世間を騒がせている性犯罪者だ。自殺する理由として確か過ぎて、少し身構えた背背の方が間抜けに思えるほど何も疑われなかった。
人を殺したのはあれきり。
そう何度もあるわけもないが。
あの高揚感は忘れられない。
どこかの国の老人ホームだったか。入所者が絶望するようなことを囁き続けて自殺に追い込んだ医者がいたとか。
その気持ちがわかる。背背がもっと勤勉だったのなら、多くのケースを試して傾向と対策を練ったかもしれない。
一度、結婚したのだが離婚した。
妻が言うには、背背は妻を追い込むようなことを言い続けるから耐えられないのだと。
これが失敗のケースだと知る。
「ああ」
始角の母は、まるで魅力的な女ではなかった。
中年を過ぎていたこともあったし、何より心労でやつれ切っていたのだから。
なのに、元妻の顔よりもはっきりと思い出せる。鮮やかに。
「あれは、楽しかったな」
欄干から落ちていく瞬間、目が合ったのだ。
狂喜の笑みを浮かべていただろう背背を、あの女は確かに見ていた。
ほんの一瞬。忘れえぬ最高の快楽。
◆ ◇ ◆
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