第27話:海菜の馬鹿!!

 そして一週間後の金曜日。今日で一学期の中間テストが終わった。今日は一年生だけ一時間のLGBT講習がある。


「めんどくせぇー……今更いらねぇだろLGBT講習なんて。てか、うちのクラス当事者二人もいるし」


 私と海菜に視線が集まる。二人ではなく、私が知る限り四人だ。私達と、満ちゃんと加瀬くん。私が知る限りというだけで、他に居ないとは限らない。それが頭に入っている人はこのクラスに何人いるだろうか。


「わざわざ講師呼ばなくてもさ、鈴木くんが講習やればよくね?当事者なんだし」


 誰かがそう言った。確かに海菜は話が上手いし、当事者だから説得力がある話が出来るだろう。


「はいはい。みんな廊下並べ。体育館行くぞ」


「せんせぇー、うちのクラスだけ講習無しでよくない?わざわざ話聞かなくてもみんな分かってるって。このクラスLGBTが居るんだからさ」


 そうだそうだと抗議の声が上がる。満ちゃんが「なんも分かってねぇよ」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。彼女の視線は加瀬くんに向けられており、彼は俯いていた。すると、バンッ!と三崎先生が机を叩いた。ざわついていた教室が静かになり、全員が先生に注目する。


「確かに鈴木はカミングアウトしてるし、小桜さんが鈴木と付き合ってるのはもうクラス全員が知ってると思う。俺も知ってる。けど……クラスのLGBTは本当に二人だけか?お前ら、二人を除いた38人全員がLGBT…セクシャルマイノリティじゃないって決めつけてないか?」


 厳しい口調で三崎先生はこう続ける。


「セクシャリティってのは、見えないんだ。言わなきゃ分からない。マイノリティが40人の内二人だけなのかそうじゃないかなんて全員に聞いて確かめないと分からないんだ。だから、LGBTが二人も居るって言ったやつこそ講習受けるべきだと先生は思う」


 先生の言葉を聞いて自分の発言を反省するように俯く生徒も居れば、ちょっと不服そうな生徒も居た。緊張感が漂う中、満ちゃんが拍手をする。


「ははっ。初対面の講師を外部から呼ぶより先生が講習やった方がみんな話聞くんじゃね?」


 肘をつきながらどこか嫌味っぽく彼女は言う。


「……いや、俺は専門家じゃないから。担当は国語だし、多分鈴木の方が知識がある。俺は多分当事者じゃないし、教師になるまではLGBTなんて身近に居ないって思ってた。……昔、生徒からカミングアウトされたことがあるんだ。その子はゲイだった。……誰もが鈴木みたいに堂々とカミングアウト出来るわけじゃない。差別に怯えて多数派マジョリティを装っている当事者がほとんどだと思うんだ」


 加瀬くんがこくこくと頷くのが見えた。


「と、言うわけだから全員、ごちゃごちゃ言わずに廊下に並べ。体育館行くぞ」


「はぁーい。みんな、鍵閉めるからさっさと出てねー」


 海菜が席を立ち上がり前に出て教室の鍵をくるくる回しながら言う。クラスメイトに紛れて廊下に出る際、海菜が三崎先生にお礼を言うのが聞こえた。廊下に向かう足を止め、私も先生にお礼を言いに戻る。


「いや、俺はお前達が丁度いい例として居てくれたから強く言えたんだ。特に鈴木、ありがとう」


「ふふ。私はただ、黙ってたら勝手に異性愛者にされるのが不服なだけです。それに、カミングアウトしておけば男性から言い寄られにくくなりますし。まぁ、それでも言い寄ってくる馬鹿はいますけどね」


「……鈴木、今日口悪いな」


「おっと失礼。今のは聞かなかったことに」


 しーと人差し指を唇の前に立てる海菜。いつも通りニコニコしているが、静かな苛立ちが伝わってきた。





 学年主任の司会から講師にバトンタッチし、講習が始まる。

 LGBTとは何か、性自認とは何か、性的指向とは何かという説明から入り、LGBTの割合についての話。

 小学5年、6年、そして中学三年間で年一回ずつの計五回聞いた講習と全く同じ流れだ。これを来年再来年と、あと二回やるのだろうか。流石にもう飽きてしまう。


「ではここで皆さんに質問です。自分はLGBTだって人」


 講師の質問で会場は苦笑で包まれ、手を挙げづらい空気が流れるが、後ろで動く気配がした。海菜がすっと、堂々とまっすぐに手を挙げた瞬間、どよめきが起きる。私も控えめに手を挙げる。LGBTとは少し違うが、セクシャルマイノリティではあるから。満ちゃんも、めんどくさそうな顔をしながらも手を挙げている。前の方にいる加瀬くんが振り返り目が合う。前を向き直して、俯いて控えめに手を挙げた。あげているのかあげていないのかわからなくらい控えめに。


「今手を挙げてくれた——3? かな? ありがとう」


講師の人からは加瀬くんの手は見えなかったようだ。


「手下げていいですよ。今上げてくれたのはたった3人ですが、手を挙げられなかった人や、私が説明したLGBTの4つには当てはまらないけど異性愛者ともいえないという人も居ると思います。LGBTという言葉はもう広く知られていますが、実はLGBTはセクシャルマイノリティの一部であり全てではないんです」


 そう言って講師はLGBT以外のセクシャリティ——LGBTQのQについて語り始める。6回目の講習のうちLGBT以外のセクシャリティについて触れてくれた講師は初めてだ。満ちゃんがそうではないかと悩んでいるアロマンティックやアセクシャルについても触れてくれた。恋愛感情というのは全ての人間に備わっているものではないと語ってくれた。それから、森くんのような異性装をする人——クロスドレッサーについても触れ、性自認と性表現、性的指向は分けて考えるべきだという話をしてくれた。ちなみに性表現というのは、読んで字のごとく見た目や言動で表現する性のことだ。


「最後に、私が講師になった理由を語らせてください」


 そう前置きをして講師の女性は語り始める。


「私はセクシャルマイノリティではありますが、LGBTの4つには当てはまりません。先ほど話したアセクシャルというものにあたります。といっても恋人がいないわけではなく、結婚はしてます。恋人というか、パートナーといった方がいいですね。人生を共に生きるパートナーです。未婚だと周りがうるさいし、結婚しておけば異性から言い寄られることも減るし、まぁ…そんなロマンも何にもない、打算的な理由だけで籍を入れました」


 アセクシャルでも結婚している人はいると海菜も言っていた。母親の知り合いにそういう夫婦がいるらしい。夫婦揃ってアセクシャルなのだとか。今壇上に立っている講師と同じだ。


「彼もアセクシャルです。親戚からは子供はまだかとよく言われますが、私達は子供を作るつもりはありません。LGBTは結局、Tを除けば恋愛感情があることが前提なんです。LGBT講習ではアロマンティックやアセクシャルについてはほとんど触れてくれない。だから私は講師になりました」


 満ちゃんもそういう理由で講師になろうか悩んでいると言っていた。


「恋愛は自由です。誰とするかももちろんですが、しないという選択をするのも自由だということも覚えておいてください。以上で講演を終わります。ご静聴ありがとうございました」


 温かい拍手に包まれて講演が終わる。正直、毎年のようにLGBTの4つについての話だけだと思っていたが、今回の講習はためになる話だった。





「LGBTだけじゃないんだね」


「ね。アセクシャル…だっけ。恋愛感情が無い人とか居るんだ」


「単に恋したことないだけじゃね」


「てかさ、LGBTですって手あげた3人誰?普通あの状況で手挙げる?どんだけ目立ちたいんだよ」


「一組のあいつだろ。ほら、学年代表のさ……」


「鈴木くんは分かるけどさ、あと2人誰よ」


「なんか鈴木くん、彼女出来たらしいよ。同じクラスの女の子だって」


「レズってマジなの?」


「女子二人連れてるけど、どっち?」


 噂話が聞こえる。視線を感じる。すると海菜が噂をする同級生達に見せつけるように私の手に指を絡めてきた。


「ちょ、ちょっと……」


「ふふ。満ちゃんが私の彼女と勘違いされちゃうかと思って」


「……」


 満ちゃんがスーッと黙って離れて行く。


「み、満ちゃん……」


「ねぇ百合香、この後暇?うち来ない?」


「イチャイチャしたいなぁ」と彼女は私の耳元で囁く。


「部活無いの?」


「うん。今日は休み」


「……じゃあ、寄ってく」


「やったぁー。ふふ。じゃあ帰ろう」


 嬉しそうに繋いだ手をぶんぶん振る海菜。こういう子供っぽい無邪気な仕草が可愛いと思ってしまう。


「……鈴木くんの彼女めちゃくちゃ美人じゃん」


「てかあれ、小桜さんじゃね?裁縫部の……」


「……えっ、マジじゃん。あの子レズなの?勿体な……」


 勿体ないという言葉に反応して海菜の歩く速度が遅くなる。


「いや、でもさ……女同士ってちょっとエロくね?」


「小桜さんといえばさ、前は男と付き合ってたらしいよ」


 元カレが居るのは事実だが、どこから知れ渡ったのだろうか。


「マジ? 男もイケるなら俺もチャンスある?」


 そんな声が聞こえてきた瞬間、ついに我慢できなくなったのか、海菜が声がした方を振り返った。


「あ゛?」


 女性のものとは思えないほど低い声が彼女から発せられる。「何俺の女に手出そうとしてんだてめぇ」と言わんばかりの鬼の形相で男子生徒を睨みつける。ものすごい殺気だ。だけど、その殺気は色気にも似ていた。ドキドキしてしまう。

 気圧されたのか、噂をしていた男子達は怯えた声で謝った。

 すると彼女はパッといつもの笑顔に戻り「私の大事な人に手出したら許さないからね」と言い残して前を向き直し、私の手を振りながらご機嫌な様子で鼻歌を歌いながら再び足を進める。その切り替えの速さが少し怖い。だけど、今の海菜はカッコよかった。まだドキドキしている。


「……あなた、あんな声出るのね」


「あ、ごめんね。怖かった?」


「……ちょっと。……でも……」


「ふふ。カッコ良かった?」


「……」


 悔しいが、今回は認めざるを得ない。頷くと、彼女は私の素直な反応を想定していなかったのか、ちょっと戸惑っていた。


「自分で聞いたくせに……」


「いやぁ……素直に頷くとは思わなかったから」


「守ってくれてありがとう」


「……うん。どういたしまして」


 教室に戻り、荷物をまとめてみんなと合流して駅へ向かう。


 電車に乗っていつも降りる駅を通り過ぎてはるちゃん達と別れ、そのまま海菜の家へ。

 家には誰も居ない。


「あ、今日母さん出かけてるから帰ってこないよ。父さんは飲み会だから朝まで帰らない。ふふ。二人きりだよ。部屋行こ」


「……えぇ」


 階段を上がり、彼女の部屋へ。カーペットの上に座るなり、甘えるように抱きついてきた。


「……疲れた?」


「……うん。疲れた。……癒して」


 頭を優しく撫でる。「癒されるけど違う……」と少し不満そうに呟き、肩に埋めていた顔を上げて私の唇を指でなぞる。キスを要求されるかと思ったが、彼女は人差し指を私の唇にぐりぐりと押し付けて「咥えて」と要求してきた。いつもと違う要求に戸惑いつつ、口を開けて彼女の指を咥える。


「……舐めて」


「……ん」


 恍惚とした表情で私を見下げ彼女は「エロいね」と囁く。とてつもない色気に酔ってしまいそうになる。


「…百合香、もう一本」


 指が一本増えた。邪魔な髪を耳にかけ、人差し指と中指の二本を咥える。


「っ…」


 2本の指が私の咥内を動き回り、犯す。


「んっ…」


 息苦しさから声が漏れてしまう。


「……苦しい?」


 頷くと、彼女はふっと笑った。手を止めてはくれず、行為を続ける。


「んっ……」


「可愛い」


「っ……」


苦しいのに、楽しそうな彼女を見るとドキドキしてしまう。私はMなのだろうか。


「……ふふ。ごめんね。もうこれくらいでおしまいにするね」


 そう言って彼女は指を抜いてくれたかと思えば、濡れた指を舐めてから、ティッシュで拭いて、私の唇を奪う。


「んっ……」


 彼女以外の人とキスをしたことが無いからわからないが、多分彼女はキスがものすごく上手いんだと思う。いつも、キスだけで凄く気持ちいいから。自分で自分を慰めている時に頭が真っ白になる瞬間があるが、彼女とのキスだけでそこまでいってしまう。


「うみな……」


「……ん。大丈夫だよ。今日もキスだけだよ。キスだけだからね」


「っ……ん……」


 そんな。キスだけと言わずにもっと深くまで触れてほしい。だけどそれを自分から言うのは恥ずかしくてたまらない。まだ付き合って二週間なのにそれをねだるのははしたない気がして。

 彼女はそれを分かってキスだけと言うのだろうか。分かって言っているなら相当意地悪だ。


「……っ……」


 触れてほしい。触れたい。彼女に手を伸ばすが、伸ばした手は絡め取られて握り込まれてしまった。


「好きだよ、百合香」


 耳元で甘く囁かれ、また唇を奪われる。身体が震える。あ、まただ。視界がチカチカしてきた。


「んっ……っ……」


「ふふ……気持ちいいね」


 無意識に握られた手に力を込めてしまうと、さらに腰を引き寄せられ、舌の動きが激しくなる。何も考えられなくなり、頭が真っ白になる。

 しばらくして、ようやく解放された。

 彼女の肩に頭を埋めて呼吸を整える。


「……よしよし。頑張ったねー」


 息切れしてしまう私の頭を撫でながら彼女は余裕そうに言う。その余裕がムカつく。非常にムカつく。


「……海菜、本当はしたいんでしょう」


「ふふ。したいよ」


「しても……いいわよ」


 勇気を出して呟き、彼女の反応を確かめるために顔を見上げる。一瞬驚いた顔をして嬉しそうに笑った。


「嬉しいよ。ありがとう。でも、今日はやめておく」


「……しないの?」


「うん。しないよ。……もうちょっと焦らしたいから。ふふ、最低でも付き合って一ヶ月経つまではお預けしようかなぁ」


 悪魔のような笑みを浮かべる彼女。やっぱり意地悪だ。ムカつく。

 そのまま体重をかけ、ゆっくりと床に押し倒す。すると彼女は戸惑いもせず「なぁに?君がしてくれるの?」と私を小馬鹿にするように笑った。


「……あなたが良いなら」


「……ふふ。ごめん。今日生理」


 サラッと言われ、固まってしまう。そういえば彼女も女の子だった。理解してはいるが、度々忘れそうになる。


「——もー!なんなのよそれ!」


 嘘にしろ本当にしろ、ずるい断り方だ。


「ごめんごめん。……でも、嘘じゃないよ。確かめる?」


「いい! もう!」


 勇気を出して誘ったというのに。どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのか。彼女の上から退いてそっぽを向く。

 すると後ろから抱きしめられた。


「ねぇ……怒ってる?」


「怒ってる」


「……ふふ」


「『怒ってても可愛い』とか言うんでしょう」


「うん。怒ってても可愛い。……ごめんね」


 ここ最近彼女は様子がおかしかった。それはホルモンバランスが崩れてメンタルが弱っているせいか、それとも別の要因があるのか。

 彼女の方を向き直し、抱きしめる。


「……好きよ」

 

「うん知ってる。もっと言って」


「好き」


「もっと」


「好きよ。……好き。……愛してるわ」


「……キスして」


「……目閉じて」


 目を閉じて待つ彼女に顔を近づける。私からするのももう数えられないほどだが、この瞬間はいまだにドキドキしてしまう。

 相変わらず顔が良い。肌も綺麗だ。いつも綺麗。化粧なんて必要ないくらい。

 そして——重ねた唇は柔らかい。柔らかくて気持ちいい。その柔らかさがクセになって、何度もしたくなってしまう。

 ほどほどにしておかないと。止まらなくなってしまいそうだ。

 キスを止めて、彼女を抱きしめて肩に頭を埋める。心臓の鼓動を聴いていると心が落ち着く。それだけで、触れたい欲求が満たされていく。




 どうやら、彼女の心音を聴いているうちにいつの間にか寝てしまっていたらしい。何故かベッドに横になり、彼女に抱き枕にされた状態で。

 すぅすぅと安らかな寝息が聞こえる。起こさないように腕の中から脱出しようとすると、寝ぼけた声で名前を呼ばれ、いかないでと言わんばかりにきつく抱きしめられた。脱出を諦め、彼女を抱きしめ返す。寝息が聞こえる。起きているかと思ったが、寝ぼけているだけなのだろうか。


「……ねぇ、起きてる?」


 問いかけてみるが、返事はなく寝息が聞こえるだけだ。


「ねぇ海菜、私ね……あなたと付き合えて、今すごく幸せなのよ」


 彼女といることで、揶揄われることはある。『レズなんて勿体ない』という声を聞いたのは今日が初めてではない。だけどそんなこと別に苦痛ではない。と、いうと嘘になるが、彼女といるだけでそんな苦痛はすぐに和らいでしまう。どんな苦しみも彼女に抱きしめられるだけで、触れてもらえるだけで、苦痛なんて一瞬で無くなる。

 それに、全ての人が私達を否定するわけではない。心無い声は一部だ。『差別は無知から生まれる』彼女は母からそう教わったと言っていた。

 私の母もそうだ。ちゃんと向き合って話せば分かってくれた。だから彼女は自身やマイノリティに向かって心無い声を放つ人とちゃんと対話をするのだろう。今日のように無視をする時も全く無いわけではないが、彼女が私や自分のことを馬鹿にしていた人と話をしているところを度々見かける。気づけば仲良くなっていることも。差別を無くすために、自ら矢面に立って差別と向き合っているのだろう。

 海菜はよく『私は人に恵まれているから』という。私は違うと思う。彼女が優しいから、周りもその優しさに絆されて優しくなってしまうのではないだろうか。


「……私ね、誰よりも繊細で優しいあなたが好きなの。あなたが好きよ。嫌いなところもあるし、ムカつくこともあるけど……すぐに許せてしまうくらいあなたが好き。……周りからの心無い声が辛くないと言えば嘘になるけど、あなたを失う方が辛いわ。だから、何を言われたって私はあなたのことを離したりしないわ。だってもう私は愛する人を自分で選べるから。あなたは私が選んだの。私の心が選んだのよ」


 だからどうか信じて欲しい。私は自分から離れたりしないと信じてほしい。いつか捨てられるなんて思わないでほしい。別れる日が来るとしたらその時はちゃんと話し合って、別々の道を歩もうとお互いに納得した時だろう。そんな日が来るとは思えないが。周りの声に嫌気が差して逃げ出すことはありえない。それくらいで逃げ出す覚悟なら、母に逆らってまで彼女と付き合いたいなんて言わなかった。

 眠る彼女に向かって、淡々と想いを紡ぐ。本当は起きている時に伝えるべきだということくらい分かっている。分かっているけれど、面と向かっていうのは恥ずかしい。それにきっと、彼女は本当は起きている。


「……それ、起きてる時に言ってほしいなぁ」


 私の腕の中で、涙声で彼女が呟いた。ほら、やっぱり起きていた。


「……起きてると思ったから言ったのよ」


「……本当に?」


「……本当よ」


「じゃあもう一回言って。最初から」


「嫌よ。二度は言わないわ」


「寝てて聞いてなかったんだよ。お願い」


「……あなたが好きって話よ。……いつも言ってる話」


「……長々となんか語ってたじゃん」


「聞いてたんじゃない」


「……内容までは聞いてない」


「……知らない。寝てる方が悪い」


「……理不尽」


 拗ねるようにそう言うと、私を離してそっぽ向いてしまった。


「本当に聞いてなかった?」


 彼女は答えない。


「一回だけよ。一回しか言わないから」


 眠る彼女に語った話を思い出しながら、彼女の方を向き直して彼女の背中に顔を埋めて、もう一度ぽつりぽつりと溢す。


「……以上よ。もう言わないから」


「……うん。ありがとう」


 彼女がもぞもぞと布団の中から出した手にはスマホが握られていた。


『何を言われたって私はあなたのことを離したりしないわ。だってもう私は愛する人を自分で選べるから。あなたは私が選んだの』


 スマホから私の声が流れる。


『愛してるわ。海菜』


「んふふ」


『愛してるわ。海菜』


「ちょ、ちょっと!何録音してるのよ!」


「だってぇ……一回しか言わないっていうから……」


『愛してるわ。うみ「も、もう!そこばかりリピートしないで!」


 彼女からスマホを取り上げ、音声を消そうとするが、彼女の悲しそうな顔に絆され躊躇ってしまう。スマホを返すとニコーッと満面の笑みを浮かべた。そして少し弄り、スマホに向かって「愛してるよ、百合香」と囁きかけた。私のスマホの通知音が鳴る。海菜から音声ファイルが送られてきていた。再生する。


『愛してるよ、百合香』


 ファイルの中身は、たった今彼女がスマホに囁きかけた言葉が録音されたものだった。


使いいよ」


「なっ…し、しないわよ!セクハラ!」


「えっ?もうちょっと実用的なの欲しいって?ASMRで録音しようか?」


「言ってない!てか……エーエス……? って何?」


「んー……実際に聞かせた方が早いかな」


 ベッドから起き上がると慣れた手つきで何やら怪しげな機材を用意し始めた。左右にリアルな人の耳のような形の出っ張りがある。その機材と繋いだヘッドフォンを私に渡す。ヘッドフォンを装置すると、機材の耳元に行き『愛してるよ。百合香』と機材に囁く。ヘッドフォンから彼女の吐息がダイレクトに伝わり、思わず飛び跳ねてしまう。


「ふふ……ぞわぞわする?」


 彼女が機材の耳元で話すとその囁き声がヘッドフォンから流れる。まるで直接耳元で囁かれているみたいにリアルだ。吐息まで感じる。


「聴覚への刺激で気持ちいいって感じる音声のことをASMR音声っていうんだ。ASMRってのは"Autonomous Sensory Meridian Response"の略で、直訳すると"自律感覚絶頂反応"。まぁつまり、聴いていて気持ちいい音声のことね」


 耳がくすぐったくて説明が頭に入ってこない。というか、英語の発音が良すぎて聞き取れなかった。


「お、オート…?何?」


「ふふ。英語聞き取れなかった?オートノマス・センサリー・ミリディアン・レスポンスだよ」


 一単語ずつゆっくりとわかりやすく発音してくれるが、ぞわぞわする気持ちいいような悪いような感覚に耐えられなくなりヘッドフォンを外すと、残念そうな顔をして機材を片付け始めた。


「なんでこんな機材持ってるのよ」


「ふふ。ASMR音声録音してネットに動画あげてた友達からもらった。新しいの買ったからって。録音したら百合香に送るね」


「……要らない」


「あははー。送るね」


「要らないってば」





 と断ったが、その夜本当に音声が送りつけられてきた。15分もある。『要らないって言った』とメッセージを返しつつも、イヤホンをつけ、周りの音が聞こえるように小さめの音量で再生する。母はもう仕事に行ったため家には一人だが、一応念のため。


『なんだかんだ言いながらファイル開いてるじゃん』


 そうくすくすと笑う彼女の声が再生される。思わず隣を見てしまうが、いるはずはない。悔しくなり、再生を止めようとすると『待って、止めないで』と囁かれる。リアルタイムで録音されているのかと思うほどタイミングが良い。思わず隠しカメラを探してしまう。


『やだなぁ。安心して。隠しカメラなんて仕掛けてないよ』


 私の行動を予想しながら録音したというのだろうか。やはり彼女、人の心が読めるのではないだろうか。


『ふふ。せっかく録音したんだから最後まで聴いてね。途中で切ったら駄目だからね』


 そうは言っても、このまま聴いていたら妙な気持ちになってしまう。いや、もう既に妙な気分だ。イヤホンを外し、彼女に『馬鹿』と一言メッセージを送る。


『最後まで聴いた?』


『聴けるわけないでしょ……』


『えー聴いてよ。せっかく録音したのに』


『冒頭のあれ何』


『あはは。君がどういう行動取るかなって想像しながら録音したの。ちゃんと君の行動とリンクしてた?』


 恐ろしいほどリンクしていた。


『あなた、人の心読めるでしょ』


『実は読めます』


『やっぱり』


『冗談だってば。音声、最後まで聴いてね』


『聴かない』


『えー……使ように色っぽい声意識して囁いてあげたのに』


『使うとか言わないで。ブロックするわよ』


『あははー。私はもう寝るねー。おやすみなさい』


 丸まって眠る狐のスタンプが送られてくる。私もスマホを置いて目を瞑るが、やはり音声が気になってしまい、片付けたイヤホンをつけて再び再生する。一度聞いたところを飛ばして続きから。


『ふふ。結局最後まで聴こうとしてるじゃん』


 揶揄うような彼女の声が流れる。なんなんだ本当に。見えてるのか。


『あはは。揶揄ってごめんね。……怒らないでよ。可愛いよ。百合香。好きだよ』


 チュッというリップ音に驚き、思わず悲鳴をあげてしまう。


「もー!」


『あはは。びっくりした?ふふ。…可愛いなぁ』


 無いと分かっていても隠しカメラを探してしまう。


『またカメラ探してる?』


「探してない」と言い返すと『えー?本当にー?』と返ってくる。

 録音のくせに会話を成立させるんじゃないわよ。


『あははっ』


 目を閉じると彼女の幻影が見えるほどリアルだ。すぐ後ろに彼女を感じる。


『ふふ。…百合香。…愛してるよ百合香』


 彼女の私に対する愛の囁きに混じり、度々、すり……と布擦れの音が入り込んでくる。その音のせいで、目を閉じるとベッドの上で彼女に抱かれているような錯覚に陥ってしまう。


『百合香……』


 切なげな声で呼ぶのはずるい。

 あぁ、もう……!


「もー!海菜の馬鹿……っ!」


 結局その晩私は、イヤホンから流れる彼女の声の誘惑に耐えられなかったが、数回音声をループさせてから正気に戻り、音声は二度と使わないようにゴミ箱に投げ入れた。

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