第26話:君と私は違うけれど

 夢を見た。彼女を抱く夢。

 似た夢をもう何度も見ている。彼女を好きになった日ぐらいから何度も。だけど今日はいつもと違った。

 彼女にフラれて、せめて最後にと泣きながら彼女を求める夢だった。フラれた理由は「好きな男性ができたから」だった。


「……目覚め最悪……」


 そんな最悪な夢でも、私の腕の中で乱れる彼女の姿が劣情を煽る。それに嫌悪感と罪悪感を覚えながらも自らの手で自分を慰めてしまう。何をしているんだと思わずにはいられなかったが止められなかった。


「……はぁ……」


 彼女は私とは違って異性を好きになれる。「やっぱり男の人の方が良い」なんて言われてしまう日が来るのではないかと思ってしまうのは彼女に対して失礼だと分かっていても考えてしまう。夢に見てしまうほど。私に告白してくれた女の子達の中にはそういう人も多かったから。幸せを感じれば感じるほど、この幸せはいつまで続くのかと不安になってしまう。

 彼女は私のファンの女の子達とは違う。もし好きな男性が出来たとフラれる日が来たとしてもそれは私が女性だからではない。私以上に好きな人が出来たからというだけのことだ。相手が男性とは限らない。いや、そもそもそんな日はこない。そう信じたいのに、悪夢のせいで最悪な未来を考えてしまう。


「……やだなぁ……今日、思考がめんどくさい日だ……」


 ネガティブなことを考えてしまう日は定期的にやってくる。それは私が女性だから。ホルモンバランスの関係でそうなってしまう。仕方ないのだ。そういう時期じゃなくとも、そういうことにしている。そういうことにして割り切ってしまえば、少しは気持ちを切り替えやすくなるから。こういう時だけは女性に生まれて良かったと思う。男性だったら出来ない言い訳だから。一説によると男性にもそういう周期はあるらしいが。

 起き上がりたくないくらい気力がないが、二度寝しようとすると起きろと言わんばかりにスマホのアラームが無慈悲に鳴り響く。


「……うー……頑張れ私」


 自分を鼓舞してベッドから起き上がり、クローゼットの横に置かれた姿見の前で笑顔を作る。


「うん。今日も顔が良い」


 私は別にナルシストではない。実は自分のことはそこまで好きではないから。付き合いの長い望や満ちゃんは気付いているだろう。恐らく百合香も。

 しかし、自分が嫌いとはいうが、容姿に恵まれているとは思っている。『顔が良い』と周りにちやほやされて育ったら誰だってそうなるだろう。満ちゃんもそうだ。望は謙虚だが。一般的には褒め言葉には謙虚に返すのが普通らしい。だけどそんなことをしていたらきっと、私はさらに私を愛せなくなりそうだ。


『可愛い』


 ふと、昨日私の耳元でボソッと呟かれた彼女の声が蘇る。その瞬間、身体が芯から熱くなる。鏡に映る自分の顔が赤く染まっていくのが見えて、顔を逸らす。


「……好き……」


 あんな愛おしそうな声で私を『可愛い』という人がいつか私を捨てて男性を選ぶなんて考えるなんて、やはり失礼極まりない。頬を軽く叩いて気合を入れ、部屋を出る。

 階段を降りていくと、ジューと何かを焼くような音と出汁や調味料の良い香りが漂ってきた。台所の方から楽しげな明るい話し声が聞こえる。


「おはよう。父さん、母さん」


「おはよう」


「おはよう」


 朝食、歯磨きを済ませて着替える。


「……うーん」


 制服の上を着たところで、スカートとズボンで悩む。


「今日もスカート穿いていくの?」


「……いや……うん……どうしよう」


 スカートもあんまり好きじゃなかった。けれど彼女の——好きな人の前ではで居たいと思ってしまう。しかし同時に、他の人から女の子として見られるのが嫌だ。個人的にはスカートは女性だけのものではないと思うが、日本ではまだ女性のものという常識があるため、スカートを穿けば嫌でも女性として見られる。

 メンタルが弱っている今はちょっとそれに耐えられる気がしない。それに……私にはスカートよりズボンの方が似合う。


「よし。行ってきます」


「「行ってらっしゃい」」


 ズボンを穿いて家を出ると、隣から満ちゃんがあくびをしながら出てきた。昨夜、彼女の部屋の電気が消えるのがいつもより早かった。朝は私が起きた頃には既に明るかった。いつもは真っ暗なのに。早めに寝て早起きして勉強していたのだろうか。


「はよーっす……」


「おはよう。朝から勉強してたの?」


「うん……」


「頑張ってるね。偉い偉い」


「んー……」


 よっぽど眠いのか、彼女は私にもたれかかってきた。


「こーら、しっかりしろー」


「……学校まで担いでって……」


「出来なくはないけどやだ。ほら、頑張って起きて」


 腰にしがみつく彼女の頭を軽く叩いて起こそうとしていると、マンションから望が出てくるのが見えた。一緒に女性が出てきた。姉の流美さんだ。東京に住んでいるが、こっちで仕事がある時はよく実家に泊まり込んでいる。


「ちるにゃん、うみにゃん、おはようー!」


 嬉しそうに駆け寄ってくる流美さんの声を聞いた瞬間、満ちゃんは覚醒し私の後ろに回り込んで私を盾にした。


「ちるにゃん、おはようのハグは?」


「しない」


「じゃあ、お久しぶりーのハグは?」


「しない」


「大好きのハグは?」


「しねぇつってんだろ」


 流美さんは昔から満ちゃんのことが好きだ。恋愛的な意味ではなく。会うたびにハグを求めては拒否されている。


「てか、仕事は?」


「これから行くよ。同じ電車乗って」


「一本遅らせろよ」


「やだぁ。間に合わなくなっちゃう」


「んなギリギリのやつ乗ろうとすんなよ……」


「せっかくだし君らと時間合わせようと思って」


 流美さんは声優として活動している。声の仕事とはいえ、ライブやイベントなどがあり、顔出しする機会は少なくはない。最近はテレビへの露出も増えている。この間もゴールデンタイムのクイズ番組に出ていた。それほど人気のある声優であり、私の学年にもファンが多い。小春ちゃんもその一人だ。


「……姉さん、一緒に行くのはいいんだけど、合流する友達が姉さんのファンだからあんまり余計なこと言うなよ」


「お、マジで?いつも応援ありがとうってお礼言わなきゃ」


「頼むからやめてくれ。大人しく出来ないならついてこないで」


「はぁい……冗談です。お口チャックするね」


「はぁ……。頼むから騒ぎ起こさないでくれよ」


「大丈夫だよ。堂々としてたら意外とバレないから。変装するし」


 そう言ってカバンから眼鏡を取り出して装備する流美さん。


「……眼鏡だけで大丈夫か?」


「逆に電車の中で鍔付きの帽子かぶってる方が目立つよ。いかにも変装っぽいし邪魔だし。さ、参ろうではないか諸君」


 流美さんと一緒に駅に向かう。道中人から声をかけられることはなく、無事にいつもの時間の電車に乗れた。さて、問題は小春ちゃんだ。


「おはよう。……あれ?」


「……俺の姉」


「星野です。弟がいつもお世話になってます」


「……ルミ……コさん」


「ルミコです」


 偽名が適当すぎる。


「ナイトくんのお姉さん、めちゃくちゃ綺麗っすね」


「えっ、本当?嬉しいなぁー」


「……」


 夏美ちゃんは普通だが、小春ちゃんは訝しげな顔で流美さんを見つめている。大丈夫だろうか。気付かれないだろうか。


「ルミコさん、どこで降りるの?」


「んとね、ここ」


 流美さんが指差した駅は私たちが降りる駅の手前だ。


「ルミコさん、大学生ですか?」


「うん。東京に住んでるんだけど、今日は用事があってこっち来てるんだ」


「……姉さん」


「ん?」


「絶対ボロ出すなよ」と百合香達に聞こえないように望が呟く。


「ふふ。大丈夫よん。お嬢さん達はみんな望の同級生?」


「あ、はい。学年ごとにリボンとかネクタイの色が決まってるんです」


「あぁ、なるほど」


 他愛もない話が続く中、小春ちゃんはずっと彼女を睨むような顔で見ていた。


「えっと……菊池さん? だっけ? ずっと怖い顔してるけど……」


「はっ……すみません。えっと……ルミさ——ルミコ……さん……」


「はい。ルミコです」


「……えっと……あの、お仕事、頑張ってください」


「……ふふ。ありがとー」


 どうやら気付いていそうだ。夏美ちゃんと百合香は挙動不審な小春ちゃんを見て首を傾げていた。

 やがてあまり会話が弾まないまま、駅が近づいてきた。


「じゃあね望、ちるにゃん、うみにゃん。それからお嬢さん達。学校頑張ってね」


「行ってらっしゃい」


「行ってきまーす。お嬢さん達、弟達のことよろしくねー」


 手を振りながら降りていく流美さんを見送る。見えなくなったところで小春ちゃんが望の方を見た。望は気まずそうに目を逸らす。


「……今の、星野くんのお姉様ですか」


「……うん」


「……本物?」


「……本物」


「……本物の?」


 やはりバレていたようだ。望は視線を小春ちゃんの方に戻しため息をつくと、しーと人差し指を唇の前に立てた。小春ちゃんはこくこくと素早く大きく頷く。


「星野流美って——え? えっ、待って。星野流美?」


「……しー」


「マジか……やば…。あ、王子の初恋の人ってもしかして……」


「いや、初恋は別の人だよ」


「……」


 何か言いたげに私の顔を見つめる百合香。


「ん?なぁに?百合香。『今日も顔が良いなぁ』って?」


「……星野くんのお姉さんからはうみにゃんって呼ばれてるのね。あなた」


 私のボケはスルーされてしまった。悲しい。


「あぁ、うん。そうだよ。猫みたいだからって。満ちゃんもちるにゃんって呼ばれてる」


「……可愛いあだ名ね。うみにゃん」


 可愛いのはそれを言う君の方だと思うが。


「……私のこと、うみにゃんって呼んでもいいよ」


「バカップルみたいで嫌」


「既にバカップルじゃん」と満ちゃんからツッコミが入り、みんなもうんうんと頷く。百合香はその反応にムッとしながら八つ当たりをするように私の腰を拳でドスドスと突いた。


「うみにゃんって呼んでよ。ゆりにゃん」


「やめて」


「釣れないにゃあ……」


「昨日はあんなに私を求めてくれたのに」と彼女だけに聞こえるように耳元で囁いて揶揄う。すると彼女は顔を真っ赤にして私をぽこぽこと叩く。


「あはは。ごめんね」


 やっぱり彼女は可愛い。ついつい意地悪して困らせてしまいたくなる。だけど、ほどほどにしないと嫌われてしまうかもしれない。嫌われて、捨てられてしまうかもしれない。


「ふふ。百合香」


 彼女の指に自身の指を絡める。彼女はびくりと一瞬跳ねたが、私の顔を一瞬見てから恥ずかしそうに逸らし、絡まった指をそのままぎゅっと握ってくれた。


「……ふふ」


 こうやって手を握ることさえ許されなくなる日が来るなんて考えたくもない。来ないと信じたい。思わず離さないように握った手に力を込めてしまう。


「……嫌な夢でも見た?」


 すると彼女は私だけに聞こえる声で呟くようにそう問いかけてきた。手から不安が伝わってしまっただろうか。


「えっ?どうしてそう思うの?」


「……今日のあなた、なんだか不安そうだから。いつも以上に明るいし」


 やはり彼女は鋭い。それは私のことをよく見ているからだろうか。いや、私に限らず人のことをよく見ているからだろう。


「そう見える?いつも通りじゃない?」


「……それなら良いのだけど、私の前では強がらなくていいのよ。私は弱いあなたも好きだから」


 照れ臭そうに彼女は呟く。ほらやっぱり、いつか私を捨てるかもしれないなんて考えるのは失礼極まりない。


「ふふ。そう言ってほしくてわざと不安そうな雰囲気出してたって言ったらどうする?」


「それもあり得るわね。あなためんどくさいから」


「あはは。めんどくさくて可愛いって?ありがとう」


「……もう……。……そういうところ嫌い」


 そう言った後に彼女は背伸びして手を私の頭に伸ばして、顔を逸らしながらぽんぽんと頭を撫でてくれた。


「「いいなぁ」」


 夏美ちゃんと小春ちゃんが私達を見てため息を吐く。そういえば夏美ちゃんは森くんと良い雰囲気だったが、その後進展はないのだろうか。私が問いかけようとすると、百合香が同じ質問を彼女に投げかけた。


「よく分かんない。森っち女友達多いし。前にさらっと好きって行った時も、友情的な意味だって言ってたし。あたし自身の気持ちも……よく分からん」


「とか言いつつ恋する乙女の顔をしてますけど」


「う……はるに言われたくないし!」


 顔を赤くしながらはるちゃんをぽこぽこ叩く夏美ちゃん。なんだか付き合う前のまこちゃんとみぃちゃんを見ているみたいでもどかしい。しかし、二人のことは無理に煽らずこのまま見守っていたい気持ちが強い。


「小春ちゃんの方は?何か進展あった?」


「……聞きますかそれ」


 "本人の前で"と口には出さないがはっきりと伝わる。

 望は自分に向けられる好意に対しては鈍感だ。恐らく全く気付いていないと思うが、少し動揺しているように見えた。多少は彼女に対して気があるのだろうか。しかし、彼は自分の恋心に対しても鈍感だ。芽生えていても気づいていないかもしれない。


「残念ながら、特に進展はないです」


「にっぶいよな。はるの好きな人」


「うん。驚くほど鈍い。でもそこも可愛いというか……」


「……望は好きな人出来た?」


 くねくねする小春ちゃんを他所に満ちゃんが望にボールを投げつける。デレデレしていた小春ちゃんが一変して険しい表情になる。流れとはいえ、それ聞くの?と言わんばかりの顔だ。


「いや……俺は……そもそもそういう感情が希薄なのかも……」


「えっ、ナイトくん恋してたじゃん」


「あー……うん……あれは紛れもなく恋だったと思うよ。でも、他の人にときめいたことはほとんどないんだ」


「なにそれ、王子のこと好きすぎじゃん。ヤバ」


 言ってから夏美ちゃんはしまったという顔をする。小春ちゃんが恨めしそうに私を睨む。

 望はもしかしたらグレーセクシャルかもしれない。アセクシャルに近いが、他者に対して全く恋愛感情や性愛感情を抱かないわけではない人のことだ。もしくはデミセクシャル。これは絆が深い人に対してしか恋愛感情や性愛感情を抱かない人のこと。しかし小春ちゃんの前では少々言いづらい。いや、わざわざ言わない方がいいだろう。きっと、望を余計に悩ませてしまうだけだ。


「まだ失恋したばかりだからあんまりそんな気持ちになれないだけかもしれないな」


 満ちゃんがフォローを入れる。小春ちゃんがこくこくと大きく頷いた。


「……そうなのかなぁ」


「そうだと思います」


「菊池さんはそうだった?」


「いや、私は……うーん……こんなに好きになった人初めてなので…」


「初恋なの?」


「初恋……なのかなぁ……多分そう……だと思う……」


「ふふ。そうなんだ。頑張ってね」


 微笑ましそうな顔をして他人事のように言う彼。残酷なまでに鈍感だ。


「ガンバリマス……」


「うん。応援してる。


「ハハ……アリガトウ……」


 小春ちゃんのライフがものすごい勢いで削られていくのが見えたが、気付いていないのは望だけだ。


「あー……ち、ちるはあれからどうなの?実さんのこと気になってるって言ってたじゃんね」


「あぁ、最近は実さんとお昼一緒に食べてるよ」


 実さんは多分私と同じで同性愛者だ。本人に聞いたわけではないから決めつけるのは良くないが、私がカミングアウトした時に言われた『恵まれているのね』という嫌味が気にかかっている。同性愛者でないにしても、何かしら抱えているのだろう。

 百合香はなんだか彼女に一度呼び出されて以来、彼女に対して警戒をしている。満ちゃんが実さんとお昼を一緒に食べると言い出した時も止めようとしていた。何かされたの?と聞いたが答えてはくれない。

 ただ『私と同じって言ってしまったら失礼だけど、あの人はあなたに会う前の私に似てる』と言っていた。親から束縛されているということだろうか。

 何か抱えているなら何かしてあげたいという気持ちはあるが、恐らくそれは私ではなく満ちゃんの役割だろう。


「ちる、やっぱ実さんのこと好きなん?」


「好きだよ。ドキドキする好きじゃないけど……一緒に居ると退屈しない。まぁ、私は向こうから私に対して嫌いって口癖みたいに言うけど」


「え?一緒にご飯食べてるんでしょ?」


「うん。向こうから誘ってくれる」


「わざわざ嫌いな人誘って一緒にご飯食べなくね?」


「だよなぁ」


 くすくすとおかしそうに笑う満ちゃん。恐らくそのは百合香が私に言うやまこちゃんが私に言うと同じものだと満ちゃんは解釈しているのだろう。つまり、ということだ。私も話を聞く限りはそんな気がする。


「満ちゃん、好かれてるねぇ」


「……嫌いって言われてるのに?」


「ふふ。百合香とかまこちゃんもよく私に対して嫌いって言うよ」


「あぁ……ツンデレか」


「そんな可愛いもんじゃないけどな」と満ちゃんは苦笑いして小さく呟く。そして私を見た。

 実さんから満ちゃんに向けられる感情は、以前私が望に抱いていた深い愛憎に似ているのかもしれない。と仮定すると、満ちゃんは彼女を以前の私と重ねているのかもしれない。お互いに寂しさを埋め合っていたあの頃の私と。

 やはり少し気になるが、それなら尚更、私は口を出さない方がいいかもしれない。あの頃の私だったらきっと、同情されるのを嫌がっていたから。実さんが私と同じとは限らないが、分からないからこそ自分のされたくないことをしないという無難な選択をすることにした。

 彼女のことは満ちゃんに任せよう。私は彼女のことをそれほどよく知らないのだから。


「……海菜も実さんのこと気になってるの?」


「ふふ。何?嫉妬?」


「違うわ。……実さんはあなたと話した方がいいと思うの」


 それは私が彼女と同じだと言いたいのだろうか。本人から何か聞いたのかもしれない。


「……私は逆だなぁ。彼女は私のこと嫌いだろうから」


「やっぱり、あの人がどんな悩み抱えてるかなんとなく分かるのね?」


「百合香、実さんに自分を重ねてるでしょ」


 指摘すると彼女は俯いて黙り込んでしまう。図星だったのだろう。


「私はカウンセラーじゃない。話を聞いてあげてって言われたって聞いてあげる義務はない。君のやろうとしてることはただのお節介。偽善だよ」


「ごめんなさい」と弱々しい声で彼女は小さく謝る。少しキツい言い方をしてしまったかもしれない。空気を悪くしてしまった。


「……ごめん。ちょっと言い過ぎたね。ごめんね」


 百合香の頭を撫でる。彼女は俯いたまま「あなたの言ってることは正しいわ」と小さく呟いた。


「……そっか。……ふふ。君のそういう素直なところ好きだよ」


「あなたの好きは軽い」


「あはは。ごめんね。でも、本当に好きなのかなって不安になってほしくないから。だから、君には特にちゃんと言葉にして伝えておきたいんだ」


 それに、人はいつ死ぬか分からないから。その言葉を口に出してしまえば空気が重くなりそうなので飲み込む。


「私以外にも好きって言うし優しくするじゃない」


 拗ねるように百合香は言う。

 私は一度、死を考えた。本気ではなかったが、きっかけさえあれば死を選ぶつもりだったし、夢の中では何度も自分を殺した。今私が生きているのは人に恵まれていたおかげだ。満ちゃんや望を含む沢山の人間に支えられたから。孤独だったらとっくに死んでいる。

 だから私は、感謝や好意を伝えることに関してはためらいたくはない。


「……確かに君以外にも好き好き言っちゃうけど……」


「私の身体を好きにして良いのは君だけだからね」と彼女の耳元で囁く。


「なっ……セ、セクハラ!」


「えー」


 何言ったんだよとみんなから呆れられてしまった。やっぱり彼女の真っ赤に染まる顔が可愛くて仕方ない。そうやって彼女を揶揄っているうちに、いつの間にか今朝抱いた不安は消えていた。やっぱり、こんな素直で可愛い反応をしてくれる恋人がいつか私を捨てるかもしれないなんて思ってしまうのは失礼極まりない。

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