第19話:本当の過ちは

 今からニ十年以上前、忘れたくても忘れられない中学一年の春。私は友人の付き添いで女子バスケ部の見学に行った。


萌音もね!パス!」


「おっしゃっ!任せろ!」


 そこで、背の高い一人の女子生徒に出会った。彼女の名前は姉川あねかわ萌音もね。年は二つ上で、当時の身長は170㎝。

 男子よりカッコいいと女子から人気があり、密かにファンクラブのようなものまであり、彼女目当てに入部する女子も何人か居た。

 ファンになってしまった友人に付き添い、何度か応援に行った。女の子相手に「カッコいい」とキャーキャー騒ぐ友人やファンの女の子達を見て、正直馬鹿馬鹿しいと思っていた。

 しかしある日。


「あれ、いつも応援に来てくれる子だ」


 街で偶然、彼女と会ってしまった。私が狂ってしまったのはきっと、この日がきっかけだった。この日、彼女と偶然会って、仲良くなんてならなければ、私はあんな間違いを犯すことなんてなかったのに。


「…黒崎くろさき小百合さゆりです」


「黒崎さんね。姉川萌音です。よろしくね」


「知ってます。有名人なので」


「あははー。君も私のファンなの?」


「違います。いつもは友人の付き添いで行ってるだけです」


「へぇ。ファンじゃないんだ。ふぅん」


 その日以来、何故か私は彼女から懐かれてしまった。ファンの女の子から目をつけられ『先輩の何なの?』と言われたり、いい迷惑だった。しかし聞けば彼女は、ファンの女の子が嫌いらしい。


「…どうして嫌いなんですか?ちやほやしてくれるのに」


「…みんながくれる好きは私のほしい好きじゃないから」


「…どういう意味ですか?」


「…さぁ、どういう意味だと思う?」


 そう言って、彼女は私を揶揄うように悪戯っぽく笑う。

 変な人だと思った。けれど、嫌な人では無かった。

 彼女の方から一方的に会いに来ていたのが、いつしか私からも彼女に会いに行くようになっていた。互いの呼び方も苗字から名前に変わり、彼女が卒業するまでの一年間で少しずつ、少しずつ距離を縮めていった。

 そして卒業式の日、卒業祝いにパーティをしたいと、彼女は自分の家に私を呼んだ。


「…パーティって言っておきながら私しか呼んでないんですね」


「君以外に呼びたい人居ないから。…私と二人きりは嫌?」


「…いえ」


 この時点で既に私は、彼女に対して友情とは違う妙な感情を抱いていた。多分、自分から彼女に会いに行くようになったあたりから。

 けれど、その感情を認めることは出来なかった。きっと、ただの憧れだとそう言い聞かせていた。そうであってほしいと願っていた。なのに…


「あのさ、小百合ちゃんさ、私のこと好きでしょ。恋愛的な意味で」


 彼女は私の気も知らないで、揶揄うようにそう言った。そしてこう続けた。


「私も君が好きなんだ。恋愛的な意味で」


「付き合おうよ。私達」と彼女は笑う。いつもの、私を揶揄う時の笑顔だった。だから、いつものように揶揄われているのだとすぐに判断して笑い飛ばした。


「付き合うってなんですか。女ですよ。私も、あなたも」


 しかしその瞬間、彼女からふっと笑顔が消えた。そして「冗談じゃないよ」と、いつになく真剣な顔をして、その言葉に戸惑う私にゆっくりと迫ってきた。


「も、萌音先輩…?」


「…私は女の子が好きなんだ。物心ついた時から。男の子とは付き合いたいと思えない。ねぇ小百合ちゃん…」


「キスしていい?」と彼女は私に囁いた。私はその真剣な眼差しに囚われ、魅了され、それを拒めずに受け入れてしまった。嫌だとか、気持ち悪いとか、そんな感情は一切なく、むしろ心地良かった。


「…好きだよ。小百合ちゃん。付き合おうよ」


 この時「はい」と答えてしまったことを、私は今でも後悔している。

 最初は楽しかった。彼女と付き合っていることを周りには話せなかったが、"彼女と私の二人だけの秘密"という特別感のある響きに酔っていた。けれどそれは最初だけだった。男女のカップルのように堂々とできないこと、惚気話を出来ない歯痒さ、そして…


「小百合って、モテるのに彼氏居ないよね。なんで作らないの?」


 周りからそう言われることや、男性から告白されることが少しずつストレスとして蓄積されていった。

 やがて、いつしか私が同性愛者であるという噂が流れ始め、瞬く間に校内中に広まった。

 避けられ、好奇の目で見られ、時には罵られた。

 噂を一刻も早く消したくて、優しいだけが取り柄の地味な同級生の男子に取り入った。


「でも黒崎さんって…女の子が好きなんじゃ…」


「あんな噂信じてるの?嘘に決まってるじゃない。…あなたが好きなの。人が勇気を出して告白してるのに疑うなんて酷いわ」


「…ごめん。…すごく嬉しいよ。…俺も君と付き合いたい」


「…嬉しい」


 彼のことは別に好きではなかった。誰でも良かった。男性なら誰でも。とにかく私はになりたかった。


「…萌音さん。私、彼氏が出来ました」


 彼女にそう宣言した時、彼女は一瞬目を丸くしてから「堂々とした浮気宣言だね」とおかしそうに笑った。


「冗談じゃないです。本当に」


 そう告げても彼女は笑顔のままだが、瞳から光だけが消える。


「…私もう、耐えられないんです。普通の恋愛をしたいんです。私は同性愛者なんかじゃないって、証明したいんです」


「…そう。そのために自分に気がありそうな男子適当に捕まえて利用する気なんだ?悪女だね。君は」


 そう言いながら彼女はいつものようにニコニコ笑うが、瞳は酷く冷たく、この時初めて彼女が恐ろしく見えた。


「…いいよ。じゃあ、お別れしようか」


 彼女はあっさりそう言った。まるで最初から私とは遊びだったかのように。


「でも、お別れする前に、最後に一つだけお願い聞いてくれない?」


「…なんですか」


「…私とセックスしてよ」


 その単語の意味が分からずに聞き返すと、性行為のことだと教えてくれた。具体的なことは知らないが、それがどういうものかは、もう授業で習っていた。


「女同士で…どうやって…」


「できるよ。教えてあげる。といっても、私も初めてだから痛かったらごめんね。あぁ、でも君は初めてじゃないのかな。彼氏くんとはもうした?」


「な、なんてこと聞くんですか…」


「…あれ。その反応、まさかまだ?…あぁ、セックスって単語も知らなかったもんなぁ…そうかそうか。初めてかぁ。…ちょうど明日ね、親帰って来ない日なんだ。泊まりに来てくれる?」


「…外泊は…親に禁止されてます」


「友達の家でもだめなの?」


「…はい」


「…分かった。じゃあお泊まりはしなくていいから来て。君の、私にちょうだいよ。それがお別れする条件」


「…拒んだら…どうなりますか…」


「そうだなぁ。君の彼氏くんにでも話しちゃおうかな。私は君と付き合ってるって。君はただ、噂をもみ消すために利用されてるだけだって」


「っ…萌音さん…最低ですね」


「そうだよ。私は最低な女だ」


「嫌いになっていいよ」と彼女はいつものように笑う。彼女が何を考えているか分からなくて怖かった。


「うちに来てくれるね?さゆちゃん。といっても、君に拒否権はないんだけどね」


「…別れてくれるんですよね?」


「…私が約束破ったことあるかい?」


「…明日、何時に行けばいいですか?」


「いい子だ。親が居なくなるのはお昼からだから、お昼過ぎ…午後一時ごろに駅に居てね。迎えに行くから。あ、とびっきり可愛い下着付けてきてくれると嬉しいなぁ。楽しみにしてるよ」


「…はい」


 翌日の昼、私は約束通り彼女に会いに行った。迎えにきた彼女はいつも通りだった。


「さゆちゃん、ここおいで」


 部屋に入るなり彼女は遮光カーテンを閉めてベッドに転がり、自分の隣をとんとんと叩く。私が恐る恐る座ると引き倒し、上に乗っかり、電気を消した。


 真っ暗な中、私に対する嫌味かと思うほどに何度も愛を囁かれ、割れ物を扱うように優しく抱かれた。

 怖い、早く終わってほしいという気持ちと、気持ち良い、一生続いてほしいという矛盾した気持ちで頭がおかしくなりそうだった。で感情がぐちゃぐちゃになり泣き噦る私とは裏腹に、彼女は一滴も涙を流さなかった。


「ふふ。可愛かったよ。小百合ちゃん」


「…もう…満足ですか」


「ん?まだしたいの?いいよ。意識飛ぶまでしてあげようか?」


「そういう冗談はやめてください…」


「あなたなんて好きにならなければよかった」その言葉を聞いても尚彼女はいつもの笑顔を崩さなかった。

 別れ際でさえ。本当に好きだったのだろうか、私を脅してこういうことをしたかっただけなのではないか問うと彼女は「君がそう思いたいならそう思えばいい」といつもの笑顔で答えた。


「…恨んでいいよ。小百合ちゃん。全て私のせいにしてしまえばいい」


 彼女の言葉通り、私は全てを彼女のせいにした。彼女との関係を、全て黒歴史にした。

 女性と関係を持ったのはその一度だけだった。それ以降私は男性としか恋愛をしていない。彼女以外の女性に惹かれたことはない。思春期特有の一過性の恋だったのだと、今では思う。苦い思い出だ。あんな想い、娘にはしてほしくなかった。なのに…。


「恋愛対象として気になっている女の子が居る」


 娘が、今まさに私と同じ過ちを繰り返そうとしている。助けてあげなくては、私のように、道を踏み外して傷付けられて後悔してしまう前に。


「…打ち明けてくれてありがとう。不安よね。でも大丈夫よ。思春期に憧れを恋と勘違いするなんてよくあることだから」


 不安そうな彼女を抱きしめ囁く。『同性愛なんて一過性の感情よ。すぐに』と。すると彼女は私を突き飛ばし、睨みつけた。私を病気扱いするなという怒りが伝わる。その顔が過去の自分と重なった。


「…今の貴女にはお母さんが酷いこと言っているように聞こえるかもしれないけれど、すぐに気付くわ。ただの憧れだったって。…私もそうだったから」


 目を丸くする娘に、苦い思い出の話をする。


「二つ歳上のお姉さんでね、その辺の男子より背が高くて、カッコいい人で…女の子のファンがたくさん居るような人だった。私もその一人だったわ。…今となっては…痛い思い出だけど、あの頃は本気で恋だと思ってた」


「…どうして違うって気づいたの?」


「どうしてって…ファン仲間のみんな、誰一人彼女と付き合いたいなんて言わなかったし、みんな彼氏が居たから。先輩にはしばらく居なかったけど…やがて先輩も、男の人と付き合い始めた。そのことに関して特にショックは受けなかったから、あぁ、私は先輩に憧れていただけなんだって気付いたの。恋だったら、好きな人が誰かと付き合ったらショックでしょう?」


 嘘をつくときは、真実を交えながら話すと信憑性が増すのだという。精神科医の夫が持っていた心理学の本にそう書いてあった。


「それ以来女の人に惹かれたことはないし…大学に入って、お父さんと出会って、貴女と葵を産んだ。色々あって別居はしているけど…お父さんと結婚したことを後悔したことはないわ。貴女に会えたんですもの」


 愛おしい娘の頭を撫でる。これは嘘ではない。今は離れて暮らしている夫のことも、息子のことも、娘のことも、心から愛している。同性を愛してしまった過ちもあの一度だけだ。


「…私は…」


 納得のいかない顔をする娘だが、彼女は中学生の頃、私に隠れてこそこそと同級生の男子と付き合っていた。彼のことは未だに認めていない。優しいところしか取り柄の男なんて、私の可愛い娘には相応しくはないから。彼女は夫のようなエリートが相応しい。だけど今は、娘の元カレに感謝をした。


「大丈夫。貴女は同性を好きになる人じゃないわ」


 皮肉だが、そのことを娘に相応しくない彼が証明してくれたから。


「大丈夫よ百合香」


 不安そうな彼女を抱きしめ、願う。どうかあなたには、私のような過ちを犯して欲しくはないと。




 ある日、行きには付けていなかったイヤリングを付けて帰ってきた。左に一つだけで、右にはつけていない。


「買ったの?そのイヤリング」


「えぇ。友達と一緒に」


「…友達と一緒に?」


「ペアのイヤリングを買って、半分こしたの」


 そういうと彼女は似合う?と嬉しそうに笑い、イヤリングを揺らす。同じものを持っている子は、この間話してくれた恋愛対象として気になっている女の子なのだろうか。

 その日は恐ろしくて聞けず、聞けたのは2日経った朝だった。


「友達と半分こしたの。一昨日話したでしょう?」


「…その友達は、本当に友達?」


「えぇ。友達よ。女の子」


「でも…やっぱり、いくら同性同士とはいえ、同じイヤリングを分け合うなんて、距離が近すぎないかしら」


「そう?女の子同士なら普通の距離感だと思うけれど」


 何がいけないの?と彼女は冷静な態度を貫く。


「…その女の子、この間話してたの女の子?」


 恐る恐るかけたその問いに対して、彼女は素直に頷いた。


「…そうよ。この間話した子」


「恋だなんて勘違いしちゃ駄目よ。百合香」


「…勘違いなんてしてないわ」


 笑顔だが目は笑っていない。少し苛立っているように思えた。


「…なら、そのイヤリングは捨てなさい」


 私の言葉に動揺し、出来ないわと彼女は首を振る。


「なんでそんなこと…出来るわけないじゃない。次会うときに付けるって約束したの」


 私の想いに反して、娘は彼女との仲を着々と深めていっているように見えた。


「無くしたっていえばいいわ。そんなの付けてたら周りからも勘違いされちゃう」


「何よその理由…お母さん、今どれだけ酷いこと言ってるか分かる?」


 当時の私が娘に重なる。耐えられなくなり、食事を無理矢理中断し、娘を洗面所に連れて行く。

 一昨日彼女が友達と買った忌まわしいイヤリングを娘に渡し、捨てるように命じる。

 もちろん彼女はためらった。酷いことをしている自覚はある。だけど愛する娘のために心を鬼にする。


「百合香、早くしなさい」


 躊躇う彼女に、再度命じる。イヤリングを掴んだ震える手を、洗面所に置かれた小さなゴミ箱の上にゆっくりと持っていく。酷いことをしているのは分かっている。けれどこれは彼女のためだ。彼女がこれ以上傷つかないようにするためだ。どうか、分かってほしい。

 そんな想いに反発するように、彼女は私の命令に逆らい、突然、イヤリングを持って部屋を飛び出す。

 娘は昔から、私の言うことを聞く良い子だ。あまり反発することなんてない。私が、正してあげなくては。これ以上道を踏み外してしまう前に。


「百合香!待ちなさい!どこ行くの!」


 慌てて追いかける。リビングの小さなタンスの前で立ち止まると、ガッと乱暴に引き出し、工具を取り出した。まさか、壊すつもりなのだろうか。いや、そんな乱暴な子に育てた覚えはない。

 見守っていると、ニッパーで金具だけを取り外し、代わりにストラップの部品をつけ始めた。出来上がったものを私に掲げながら彼女は言う。


「…お母さんは、私が彼女とお揃いのイヤリングを付けて、周りからそういう関係だって勘違いされたり揶揄われたりしてしまうことに怯えてるんでしょう?だったら、これで文句無いわよね?」


 言葉を失う。そこまでされてしまっては、よくはないとは言えなかった。


「…ごめんなさい百合香…これは「私のためって言うんでしょう。分かってるわ」」


 ストラップを見つめ、彼女は静かに涙を流す。慰めようと、私を抱きしめようとすると、拒否し、私を睨んだ。守りたいはずの彼女を傷つけてしまった。

 今私がさせたことは正しかったのだろうか。自問自答する。捨てさせようとしたのは、やり過ぎかもしれなかったと反省したが、間違っているとは思わない。

 私は、彼女が誤った道に進むことを止めたいだけだ。私のように傷ついてほしくないだけだ。親として正しいことををしている。だけど、無理矢理押さえつけては反発されてしまう。ここは一度、謝るべきだ。


「百合香…本当にごめんなさい。けれど…憧れの子とは少し距離を置いた方が良いわ。じゃないとあなたが辛い目にあってしまう」


「…」


 彼女は何も言わず、ただ私を睨む。


「ねぇお願い百合香…分かって…私はあなたを想って言ってるの。その女の子とは縁を…「ごちそうさま」百合香…」


 彼女はそのまま一言も発さないまま支度を済ませ、出て行った。パジャマのポケットにしまっていたはずのストラップは無くなっていた。持って行ったのだろうか。

 次に会うときにつけると約束をしたと言っていた。あれを見せて、謝るつもりなのかもしれない。そのまま最低だと軽蔑されて嫌われてしまってくれと願うのは、親として間違っているのだろうか。

 いや、間違っていない。このままではあの時の私のように、辛い想いをしてしまう。なんとかして娘から彼女を遠ざけなければ。




 翌日、彼女はいつもの時間になっても帰って来なかった。「少し友達の家に寄ってから帰る」と彼女から連絡が来る。嫌な予感がして、電話をかけるが拒否された。その友達は例の女の子なのかと問いただすと、彼女はあっさりとそうだと認めた。今すぐ帰ってきなさいと、メッセージを打ち込んで訴えるが、全て既読無視されてしまう。

 少し時間を置いてからもう一度電話をかける。何コール目かのあと、諦めようと通話を切りかけた瞬間「もしもし」と娘の声がスマホから聞こえて慌てて耳に当てる。


「百合香、今どこにいるの?」


「…さっき言ったじゃない。友達の家に寄って行くって」


「住所を教えなさい。今から迎えに行く」


「…うん。…いいよ。お母さん来たら帰る」


 あっさりと、娘は居場所を教えてくれた。カーナビに住所を入れて車を飛ばす。教えてもらった住所の家の前に車を止め、インターフォンを押すが、誰も出ない。三度目でようやく、玄関のドアが開いた。娘が出た瞬間に閉じられ、ガチャガチャと鍵をかける音がした。その態度に苛つき、玄関のドアを叩いてしまう。


「うちの娘を誑かして!謝罪も無いの!?出てきなさい!」


「お母さん、やめて。近所迷惑だから」


「うるさい!元はといえばあなたが悪いんでしょう!」


 私を止めようとする娘を突き飛ばす。尻餅をついた娘は私を睨んだ。


「何よその態度…私が悪いとでも言いたいの?」


 その態度にイラついて思わず手をあげようとした瞬間


「おねーさん、今何時だと思ってんの。あんまり騒ぐと警察呼ぶよ」


 上の方からそんな声が聞こえて、正気に戻る。上を向くと、声の主と思われる少女が隣の家のベランダからしっしと追い払うような仕草をした。

 娘を連れて車に乗り込む。車内で娘は一言も発することなく、ただ黙って窓の外を眺めていた。

 家についてようやく出てきた言葉は「心配かけてごめんなさい」の一言。


「…今朝のこと、まだ怒ってるの?」


「…えぇ。怒ってる」


「…ストラップはどこにやったの?」


「…学校に置いてきた。あなたに捨てられないように」


「あんなの持ってたら「私が彼女のことを好きだってことは周りには話してる。だけど誰も私達を否定しない。否定してるのはあなたくらいよ。…あなたは一体、誰から私を守ろうとしてるの?」


 私の言葉を遮り放たれた娘の言葉に言葉を失ってしまう。

 そして、私自身が向けられた差別心を今まさに娘に向けていることに気付く。私は今、あの時私達を否定した彼らと同じことをしているのだと。

 だけど、それを素直に認めることは出来なかった。認めてしまえば、あの時犯した過ちは彼女を好きになったことではなく、周りの声に怯えて彼女を見捨てて逃げ出したことだと認めなければならなくなるから。彼女との未来を望んだって良かったのだと、思い知らされてしまうから。

 認めたくない。私が掴めなかった幸せを娘が掴むなんて…

 いや違う。これではただの八つ当たりだ。私は、娘の幸せを願っていたはずなのに。私が掴めなかった幸せを掴もうとしている娘に嫉妬している自分に気付いてしまい、自己嫌悪に苛まれる。

 夫のことも、娘も息子のことも愛している。それは間違いじゃない。だけど、心の何処かに、あの人とあんな形で別れたくなかったという後悔がある。その後悔が、娘への嫉妬となって、結果、娘を傷つけてしまっている。


「…違うわ…私は…全部…あなたを想って…あなたが傷つかないように…」


 違う。本当に娘を傷付けているのは私だ。私を傷付けた同級生や周りの人間と同じことをして。


「っ…百合香、お母さん、仕事行ってくるから…戸締りお願いね」


「…えぇ。行ってらっしゃい」


「…行ってきます」


 事実から、現実から目を背けたくて、いつもより早めに家を出た。娘はそのことに何も言わずにいつも通り送り出してくれた。

 翌日も、その翌日も、いつも通り。私を責めることは一切しなかった。その優しさが怖かった。見返りに、好きな女の子のことを、私を差別した彼らと同じことを娘にしてしまっている事実を認めるように要求されているような気がしたから。

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