第18話:嫌いな言葉でも
「…家出でもする気か?」
いつも降りる自宅の最寄駅で降りなかった百合香を見て、満ちゃんが苦笑いする。彼女は何も答えずにただ俯くだけだった。握られた手に力が篭る。
「…うち、来る?」
私のその言葉を求めていたと言わんばかりに、彼女は頷き、スマホを取り出して弄り始めた。すぐに電話がかかってきたが、応答せずに少しいじってポケットにしまう。
「…お母さん、凄く怒ってるみたい」
「怒りたいのはこっちよ」と言わんばかりに彼女は嘲笑し、カバンからぶら下がるストラップを握りしめた。
私の手を握った手からかすかに震えが伝わる。深く息を吐き、握っている手に少し力を込める。彼女が戦っているのは私のためだと、自分に言い聞かせる。私のせいで戦わざるを得ない状況にいるわけではない。本人が望んだ。私が無理させているわけではない。
私を責める自分に言い聞かせ開き直る。私は何も悪くないと。
「じゃあ満ちゃん、望、また明日」
「…いつでも110番出来る様にしとくわ」
「そ、そこまでしなきゃいけないのか?」
「大丈夫…だと思う…」
「だと思うって…」
「大丈夫だよ。またね、二人とも」
心配そうな望を引きずり、満ちゃんは歩き去って行く。彼を高層マンションの中に押し込み、その隣の家に入って行った。その家の隣が私の家だと百合香に説明すると彼女は「近所なのね」と、隣り合う家とマンションに目をやって呟いた。
「どうぞ上がって」
玄関のドアを開けると、鈴の音が鳴り響いた。家の中から「お帰りー」という父の声。「ただいま」と返し、家に上がる。上がるのを躊躇う彼女に手を差し伸べると、彼女のポケットから着信音が聞こえてきた。
「…出てくるわね」
「…うん。私はちょっと父さんと話してくる」
リビングの扉を開けると、ソファでテレビを見ていた父が振り返り、お帰りと笑う。
「ただいま。…急で悪いんだけど、友達来てる」
「えっ、何?飯二人分しか作ってないけど」
「いや、ご飯は大丈夫…だと思う」
「だと思うって。急にどうした?家出か?」
「…まぁ…うん…そんな感じ…」
「…その子の親御さんは?」
「今外で電話してる」
「そうか。…まぁ、連絡取ってるなら良いか」
「いや、よくはないか…?」とため息を吐きながら父は自問自答する。
「…その」
「ん?」
「…今来てるの、一昨日、デートした女の子。…その件で、親と揉めてるらしい。…女同士だから…って…」
「付き合ってるのか?」
「…ううん。付き合ってはいないけど、ほぼ付き合ってるようなもん」
「…そうか」
「恋人が出来たのか」と父は少し嬉しそうに笑う。戸惑いも、否定もしない。当たり前だ。父には私が女性愛者であることは話してあるし、母が女性が好きだということを知っている。否定されないことは分かっていた。分かっていたが、彼女の母親から間接的に否定された後だからか、父の祝福が心に深く染みる。
「…海菜、お待たせ」
百合香が戻ってきた。父を見つけると、深々と頭を下げる。父も軽く会釈をして、挨拶をした。
「百合香、大丈夫だった?」
「…えぇ。…迎えに来るって」
「あぁ…そうなんだ。…帰したくないんだけどなぁ」
「…ごめんなさい。帰るわ。…私は母を見捨てられない」
「…うん。分かってるよ」
ふと、彼女がカバンにつけていたストラップが無くなっていることに気づく。どうしたのかと問うと「心配しなくてもちゃんと持ってるわ」と手に持ったストラップを掲げた。
「…あなたに預ける。…私の寝ている間に捨てられてしまいかねないから」
受け取ったストラップをポケットにしまう。
「デートの時だけは付けてね。持っていくから」
「えぇ。…あと、これも」
彼女がカバンの中から取り出し、私に渡したのはフェルトで作られた黒猫のぬいぐるみ。以前私が『完成したら見せて』と言っていたものだろうか。
「…それ、あげる。私だと思って持ってて」
照れ臭そうに彼女は言う。不機嫌そうな、むすっとしたぬいぐるみの顔が彼女と重なる。「君にそっくりだね」と彼女に伝えると「言うと思った」と笑ってからぬいぐるみと同じ顔をした。
「ふふっ…そっくり…」
「ふふ。あ、写真だけ撮らせて。お父さんに送らなきゃ」
「ん。じゃあ持っててあげる」
ぬいぐるみを顔の隣に構えてカメラを待つが、彼女は呆れたような視線を向けるだけでカメラを構えてはくれない、
「…置いてくれた方が撮りやすいのだけど」
「えー。"リリカ"は私と一緒が良いって言ってるよ?」
「なにそれ。ぬいぐるみの名前?」
「百合は英語で
「あぁ、なるほど…。…良いわ、リリカと一緒に撮ってあげる」
「わーい。可愛くとってね」
「…可愛いよりカッコいいって言われたいんじゃないの?あなた」
「ふふ。今は君に可愛いって思われたい」
ぬいぐるみを抱きしめ、彼女が構えたスマホのカメラを見る。パシャシャシャシャ!と連写音が数秒続き、止まると彼女は険しい顔でスマホを弄る。
「…撮りすぎた」
「いや、あの長さはわざとでしょ。ふふ。何枚でも撮っていいよ」
「要らないわよ同じ写真ばかり」
「色んな私を見たいって?」
「…ほんと、都合の良い頭ね。…やっぱりリリカだけで撮らせて」
「私が可愛すぎるからお父さんに見せずに独り占めしたいって?」
「うるさい」
「あぁーん…リリカぁ…」
ぬいぐるみと同じ顔をして、ぬいぐるみを私から取り上げる百合香。机に乗せて一枚だけ撮るとぬいぐるみを私の脇に雑に差し込んだ。
「…もう行くわね。お母さん着いたみたいだから」
インターフォンが鳴る。カメラには女性の姿が映し出されていた。腕を組み、足でトントンと床を叩く姿を見れば苛立っていることは一目瞭然だ。
「…じゃあ…帰るわね」
そう言う彼女の声は震えていた。背を向け、遠ざかっていく。引き止めてはいけない。分かっているのに、帰したくない想いが勝り、気づけば彼女の腕を掴んでいた。彼女は振り返りもせず、私の手をそっと引き剥がす。それでも私はもう一度腕を掴んでしまった。
「…帰らないで。百合香」
「今日はもう、わがままは聞かないって言ったはずよ」
「…帰したくない」
「…また明日会えるわ。大丈夫よ。またね。海菜。良い夢を」
二回目のインターフォンを合図に、彼女は私の腕を振り払って玄関に向かって歩いていく。伸ばした手を、父が掴んだ。
「いい加減にしなさい。明日も学校で会えるんだろ?」
「…うん」
「愛してるなら信じてやれ。縛りつける必要なんてないくらいに」
「…分かってる」
「…よし。百合香ちゃん…だっけ。またいつでもおいでね。俺も妻も、君のこと歓迎する。うちの娘はちょっと…というか、結構わがままなところあるけど…娘のこと、よろしく頼むよ。甘やかさないでくれてありがとう」
足を止めて「はい」と震える声で返事をし、涙を拭うような仕草をしてから「私が出たらすぐ鍵を閉めて」と告げて、三回目のインターフォンでようやく玄関のドアを開けた。彼女の言う通り、彼女が出た瞬間に鍵を掛けると玄関のドアを激しく叩く音と「うちの娘を誑かして!謝罪も無いの!?出てきなさい!」という怒号が聞こえた。鍵を開けたらきっと殺される。そんな恐怖を感じるほどの剣幕だ。
しばらくするとドアを叩く音は止み、満ちゃんから「行ったよ」とLINKにメッセージが来た。
「…気になったんだけど、百合香ちゃんってさ…」
「…うん。
彼女の父親のことは父も知っている。二人、時には母を含めた三人で食事をするほど仲がいい。
「…なるほどね。だから優人さんに取り入ってるんだ。外堀埋めるために」
「嫌な言い方しないでくれるかなぁ。私は百合香と優人さんの仲を取り持ってあげただけだよ」
「…ふーん。…まぁいいや。にしても凄い剣幕だったなぁ…お前、あの子のお母さんに何したんだよ」
「…娘にちょっかい出した意外は何も。会ったことすらないし。…ちょっと、過保護なんだって。『百合香ちゃんの恋人は私の理想の男性以外は認めないザマス!』って感じらしい。私は女だから論外だし、百合香は前に男の子と付き合ってた。…だから多分、彼女のお母さんは私が百合香を同性愛の世界に引きずり込んだとでも思ってるんだろうね」
先に惚れたのは多分私だ。私は彼女を一目見た瞬間に恋に落ちた。けれど今は彼女もしっかりと、私を好きだと態度で伝えてくれる。私が彼女を同性愛に目覚めさせてしまったとは誰にも思ってほしくないという気持ちはよく伝わる。彼女の母親にもそれが伝わるといいのだが、私には何も出来ない。私が口を出したって、彼女の母親には届かない。彼女を信じて待つ以外に出来ることがないのが歯痒くて仕方ない。
「…焦るなよ。海菜」
「うん…大丈夫。…百合香はお母さんのことも見捨てたくないって言ってたから」
見捨てて、私の元に来てほしい気持ちは強い。今すぐにでも拐ってしまいたい。だけどそれでは誰も幸せになれない。彼女に母親を捨ててしまった罪悪感を植えつけてしまうだけだ。
「…よし、とりあえず飯食え。飯食って風呂入って、さっさと寝ろ」
「…うん」
ストラップを適当な場所に置こうとして、ふと思いつく。百合香から貰ったぬいぐるみの首にストラップの紐をかける。とりあえずはこの方がいいだろう。大切な人預かり物を無くすわけにはいかない。
「…私と百合香の思い出、ちょっと預かっててね。リリカ」
ぬいぐるみの頭を撫でてからパソコン台の空いていたスペースに置き、食事と風呂を済ませてぬいぐるみを連れて自室へ。
勉強机の上にぬいぐるみを置き、写真を取る。一緒に寝るためにはやはりストラップは外しておいた方が良いだろう。ぬいぐるみの首からストラップを外しイヤリングが入っているケースを開ける。全く同じ飾りが付いたイヤリングを見ると、少しだけ心が痛んだ。ストラップを一緒にしてケースを閉じ、ぬいぐるみを抱きしめてベッドに飛び込む。枕の横に並べて改めて顔を見ると、やはり彼女に似ている。
ストラップをネックレスとして首から下げたぬいぐるみの写真を百合香に送ろうと、スマホを手に取り、LINKを開くが、送信するのを躊躇ってしまう。スマホをポケットにしまい、心を落ち着かせようと外の空気を吸うためにベランダに出る。隣の家のベランダに人影を見つけた。満ちゃんだ。
「おう。無事だったか」
「…今日はたばこ吸ってないんだね」
「普段から吸ってねぇよ」
「…うん。ごめん。冗談」
「ったく…冗談が言える元気はあるみたいで安心した」
ふっと満ちゃんが笑う。釣られて笑うと、スマホが鳴った。百合香だろうか。慌てて確認する。
「ユリエル?」
「ううん。違った」
実さんだ。「音源抽出出来たので送ります」の一言の後に音声ファイルが送られてきた。再生し、音量を上げる。
「…これ…実さんの?」
「うん。そう。送るね」
再生を止めて、満ちゃんにファイルを転送する。そわそわしながら「聴いてきていい?」と目を輝かせる彼女に許可を出すと、軽い足取りで部屋に戻っていった。実さんに音源を渡したことを伝え、お礼の文言を打ち込んでいると、満ちゃんが戻って来た。
「やばい。めちゃくちゃ良い」
満ちゃんの言葉をそのまま実さんに伝える。
「…ありがとうございますだって」
「こちらこそ。…目を閉じて音源聴いてたらさ、ヴァイオリンの音に混じって微かに風の音も聴こえて…野外で楽しそうに弾くあの人の姿が浮かんだんだ。で、なんか…今凄くドキドキしてる」
しかし、彼女は納得いかない様子でこう続ける。
「だけど、付き合いたいとか、そういう感情は湧かないんだ。なんというか…好きな芸能人みたいな…。ヴァイオリンを弾いている姿を遠くから眺めているだけで満足…みたいな」
「なるほど…でも、好きなことには変わりないんでしょう?」
「そう…だな…好きなのは確かだと思う」
「じゃあ今は憧れか恋かって無理して答え出さなくていいんじゃないかな。実さんのことを知るうちにはっきりすると思うよ。きっと、焦ったら余計に答えが遠ざかると思う」
「…そうだな」
スマホが鳴る。今度こそ百合香だろうか。期待しながら取り出すと、期待通りの人だった。「声が聞きたい」の一言。
「今度こそユリエルか?」
「うん。私、部屋戻るね」
「あぁ。音源ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」
部屋に戻り、ベッドに転がって恐る恐る彼女に電話をかける。すぐに応答した。
「海菜…大丈夫?辛くない?」
第一声が、私を心配する声だった。辛いのはきっと、彼女も同じだというのに。
「…リリカが居るから大丈夫」
「…そう。…妬いちゃうわね。リリカに」
「君が自分の代わりにしろって言ってくれたんじゃない。…君こそ、私と電話してて平気なわけ?お母さんは?」
「母は仕事に行ったわ。私は間違ってないなんて言ってたけれど、反省はしてたと思う。ちょっとずつ、変わろうとしてくれてる気がする」
「…そっか」
「…ねぇ、明日、部活サボって二人で出かけない?」
真面目な彼女の口から"サボる"という言葉が出たことに驚いてしまう。
「当たり前のようにサボるとか言っちゃうんだ。悪い子だね」
「部活サボって日向ぼっこしてたあなたに言われたくないわ。ぬいぐるみ出来上がっちゃったから行ってもどうせやる事無いの。手芸屋さんに行って次に作るもの考えようかと思って。…ねぇ、制服のスカート持ってる?」
「あるけど…」
「…じゃあ、明日穿いてきて」
「いいけど…どうして?」
「…男の子だと勘違いされない格好でデートしてほしいの。…スカートを穿くのは嫌?」
「…ううん。大丈夫だよ。嫌だったらわざわざ買わない」
「…そうね。なら明日、楽しみにしてるわね。おやすみなさい海菜」
「うん。おやすみ」
通話を終了させる。
「スカートかぁ…」
急にどうしたと揶揄うクラスメイト達の顔が浮かぶ。正直、昔からスカートは似合わないと散々揶揄われていたせいで、あまり好きではない。それでも持っているのは、夏はスカートの方が涼しいから。冬服のスカートも買ってあるが、おそらくほとんど使わないと思っていた。
揶揄われることを考えると少々気が重くなってしまうが、彼女が「似合っている」と笑ってくれることを想像すると、そんなことどうでも良くなってしまう。
「あ」
ふと、ぬいぐるみの写真を送ろうとしていたことを思い出し、彼女に送る。既読が付き、いいねと親指を立てる猫のスタンプだけが送られてきた。隣で眠るぬいぐるみの写真を撮り送る。親指を立てていた猫は急に不機嫌になり、拗ねるように布団に潜ってしまった。
「ぬいぐるみに妬いてるの?」と揶揄うと、シャー!と威嚇して、再び布団に入る。
「ふふ…なんだよそれ…」
彼女のこういうノリの良いところが好きだ。「おやすみ」と送り、ぬいぐるみの手を握って目を閉じる。
その日の夜は百合香と、人間体になった百合香そっくりの顔をしたリリカに散々「可愛い」と囁かれる夢を見た。「可愛い」より「カッコいい」と言われるほどがよっぽど嬉しいが、彼女の声で紡がれるその言葉は、私をちやほやしてくれるファンの女の子から言われる「カッコいい」の何倍も嬉しかった。
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